寺社からたどる戦国の焼津@焼津市歴史民俗資料館
先日、静岡県の焼津市歴史民俗資料館にて行われている企画展「寺社からたどる戦国の焼津」を拝見しました。
本展は、戦国期の焼津市域を舞台に合戦を繰り広げた今川氏・武田氏・徳川氏の動向や、彼らと寺社との関係について、寺社に所蔵されている史料を中心に紹介する展示となっていました。
展示は、今川氏→武田氏→徳川氏の流れで、戦国期焼津市とその周辺で起こった出来事について、古文書や寺社の縁起・寺社に伝わる伝承を紹介する形となっていました。
今川氏・武田氏に関しては、焼津市の林叟院所蔵の市資料が比較的多くありました。林叟院は小川城(同市)の城主とされる長谷川氏を開基として創建された曹洞宗の古刹であります。関連して小川城の遺物の展示もあり、見応えがありました。
焼津神社所蔵の永禄4年の今川氏真朱印状では、入江大明神(現焼津神社)の神主と百姓の間の相論に関して、氏真が裁決を下すものであり、今川氏による在地支配の一端を垣間見ることができました。
また、同館所蔵の花沢城攻撃の武田氏陣形図(作成年不明)の展示もありました。『甲陽軍鑑』や江戸期の地誌を元に後世に描かれたとされる陣形図ですが、同図に見える武将について、一人一人の丁寧な解説があり、見入ってしまいました。
徳川期の紹介では、天正12年の坂本貞次・駒井勝盛連署状(個人蔵・焼津市指定文化財)が、興味深かったです。徳川家康が小牧・長久手の戦いに際して、焼津市の村落に発給したもので、百姓の動員方法について命じられています。徳川氏の駿河支配の様相がよく分かる史料でした。
同展の出品目録は以下の通り↓
同展は、資料館の一画を使ったこじんまりとした企画展ではありましたが、展示解説の小冊子も配布されており、丁寧な説明がなされていました。
同日に訪問した藤枝市郷土博物館の「駿河の南北朝動乱展」に比べても、平易な解説を心がけており、非常に見やすい展示となっていました。
ブログ主自身、初めて焼津市歴史民俗資料館へ訪問しました。常設展の中世・戦国期のコーナーでは、主に小川城の出土物を中心に展示がなされており、中世の遺物が意外と多く出土していることを再確認するとともに改めて驚きもしました。
JR焼津駅から少々離れていますが、中世の展示も興味深く拝見できたので、満足度の高い訪問となりました。
同展ポスター↓
駿河の南北朝動乱展@藤枝市郷土博物館・文学館
先日、静岡県藤枝市郷土博物館・文学館にて行われている特別展「駿河の南北朝動乱展 今川氏、駿河支配のルーツをたどる」へ行きました。
南北朝時代に駿河国内で行われた全国規模の合戦の過程や、それらの合戦での武功によって駿河守護となった今川氏が、同国の支配を確立していく様子を、古文書や城郭模型・民俗資料から見ていく展示となっていました。
印象的だったのは、足利尊氏自画自賛の地蔵菩薩像や足利尊氏坐像など、尊氏が崇敬した静岡市清水区の清見寺に関する資料が多かったことでした。
また鉄舟寺所蔵の旧久能寺文書や安養寺所蔵の満願寺文書など、寺社関係史料も多く、尊氏と直義の攻防を寺社の視点から考え直すことができました。
南北朝期駿河国を理解する上で必須の史料、駿河伊達家文書の複製もあり、伊達景宗の動向や薩埵山合戦の過程を解説するジオラマもあり、とても興味深く拝見しました。
城郭に関しては、「幻の大津城はどこか?」というコーナーもあり、大津野田城に比定する説と滝沢西・東城に比定する説を取り上げていました。
駿河国内の尊氏に敗れた直義方や南朝方の武将について、民俗資料から見つめ直す展示もあり、地元に残された伝承に直に触れる貴重な機会でした。
今川氏による駿河国支配がどのように始まったのかというテーマについて扱った展示は、静岡県内でもかなり少ないので、こうした展覧会を行うことは意義深いことだと感じました。
同展では出品目録が配布されてなかったので、ブログ主が個人的にメモしたリストを載せます。
主な出品リスト(ブログ主のメモ)
資料名 | 年代 | 所蔵・管理者 | メモ |
---|---|---|---|
黄表紙「絵本尊氏勲功記」 | 寛政12年 | 当館蔵 | |
「新刻太平記」十巻 | 元和元年 | 当館所蔵 | |
平田寺文書「後醍醐天皇綸旨」 | 嘉暦2年後9月21日 | 平田寺所蔵 | |
平田寺文書「後醍醐天皇綸旨」 | 元弘3年11月28日 | 平田寺所蔵 | |
三嶋大社文書「足利尊氏禁制」(複製) | 元弘3年8月9日 | 三嶋大社所蔵 | |
「建武2年足利宰相関東下向宿次・合戦注文」(複製) | 康永4年頃の写し | 国会図書館所蔵 | |
「足利尊氏自画自賛の地蔵菩薩像」 | 観応元年7月6日 | 清見寺所蔵 | 尊氏自筆の可能性 |
「伝夢窓疎石書『無 別』」 | 室町時代 | 清見寺所蔵 | |
「尊氏公信玄公由緒書」 | 文政5年4月 | 清見寺所蔵 | |
「足利尊氏坐像」 | 室町時代 | 清見寺所蔵 | 静岡県指定文化財 |
杉谷行直模写・伝雪舟筆「富士三保清見寺図」 | 清見寺所蔵 | ||
『今川記』(別名「富麓記」) | 江戸時代写本 | 当館所蔵 | |
「難太平記」上・下 | 貞享3年 | 静岡県立中央図書館所蔵 | |
満願寺文書「駿河国国宣」 | 建武5年6月12日 | 安養寺所蔵 | |
「今川範国書下」 | 建武5年5月27日 | 静岡市歴史文化課所蔵 | |
「新刻太平記」三十巻 | 元和元年 | 当館所蔵 | |
東光寺文書「足利尊氏禁制」 | 正平6年12月 13日 | 東光寺所蔵 | |
旧久能寺文書「足利直義御教書」 | 観応2年12月18日 | 鉄舟寺所蔵 | |
静岡浅間神社文書「今川範氏判物」 | 正平7年正月8日 | 静岡浅間神社所蔵 | |
旧久能寺文書「今川範氏禁制」 | 正平7年正月16日 | 鉄舟寺所蔵 | |
旧久能寺文書「今川心省範国書下」 | 観応3年6月13日 | 鉄舟寺所蔵 | |
旧久能寺文書「今川心省範国巻数返状」 | 観応3年6月20日 | 鉄舟寺所蔵 | |
駿河伊達家文書「伊達景宗軍忠状」(複製) | 文和2年2月 | 京都大学総合博物館所蔵 | |
駿河伊達家文書「今川範氏感状」(複製) | 文和2年2月18日 | 京都大学総合博物館所蔵 | |
駿河伊達家文書「伊達景宗軍忠状」(複製) | 観応3年9月10日 | 京都大学総合博物館所蔵 | |
駿河伊達家文書「伊達景宗軍忠状」(複製) | 観応元年12月 | 京都大学総合博物館所蔵 | |
駿河伊達家文書「伊達景宗軍忠状」(複製) | 正平7年正月 | 京都大学総合博物館所蔵 | |
駿河伊達家文書「伊達景宗軍忠状」(複製) | 正平6年11月 | 京都大学総合博物館所蔵 | |
東光寺文書「今川範氏禁制」 | 観応3年7月21日 | 東光寺所蔵 | |
平田寺文書「今川範国書下」 | 文和2年3月9日 | 平田寺所蔵 | |
満願寺文書「満願寺長老宛今川範氏書状」 | 年代不詳 10月12日付 | 安養寺所蔵 | |
「狩野介貞長木像」 | 海野保氏所蔵・静岡市文化財資料館寄託 | ||
田代大井神社の神楽面(殿面・女面) | 神谷家所蔵・川根本町教育委員会保管 | ||
滝沢のお采塚(たっちょう)さんに祀られた若姫宮大明神・姫宮大明神木像と棟札 | 藤枝市・上滝沢地区所有 | ||
満願寺文書「今川泰範寺領安堵判物」 | 永和4年3月2日 | 安養寺所蔵 | |
満願寺文書「今川範政寺領安堵判物」 | 応永24年7月18日 | 安養寺所蔵 | |
正林寺の今川義忠像(複製) | 原像は室町時代 | 正林寺所蔵・複製は静岡市歴史文化課所蔵 | |
刀(無銘)青江 | 南北朝期(備中国) | 個人蔵 |
同展のチラシ↓
《コーナー》旅行記はじめました
〈目次〉
はじめに
久しぶりの更新となってしまいました。
前回の更新は、コロナ禍の自粛期間でしたが、それから夏が過ぎ、すっかり秋になってしまいました。
私事では、勉強とアルバイトで忙しい日々でしたが、10月でアルバイトの契約が終了しました。
GoToキャンペーンもあり、どこかへ一人旅に行きたくなり、関西へ行きました。そこで感じたことを旅行記として書いてみようと思いました。
今後もどこかへ一人旅したときは、何かしら書いてみたいなと思い、「旅行記はじめました」コーナーをはじめました。
(カテゴリ:旅行記)
ゆきあたりばったり関西(2020年秋)
雨の日の午後、京都駅を降りた。ゆきあたりばったりな旅がはじまる…
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ゆきあたりばったり関西(2)
秋晴れの朝、京都サイクリング編
ゆきあたりばったり関西(3)
城好き仲間たちと登る大文字山編
ゆきあたりばったり関西(4)
朝駆けの飯盛城編
ゆきあたりばったり関西(5)
戦国の大迷宮、観音寺城編
ゆきあたりばったり関西(5)
前回↓
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能登川駅についたのは正午だった。ここからバスを使い、六角氏の本拠観音寺城へ向かう。
バス停を降り、結神社に参拝。ここから約1時間の山道となる。
延々と続く石段をひたすらに登る。山岳寺院を利用した城だけあって、修行僧の気分である。
この石段はいつ終わるのか。息を上げながら前方を見上げると石垣が見えた。伝布施丸の石垣である。飯盛城と同様の古風な石垣だ。
駐車場から観音正寺への参拝道を行くと、奥の院の巨大な磐座が目に入った。すごい。圧巻のスケールである。観音寺城はこの聖地を取り込むことを意識していたのだろうか。
観音正寺に参拝。コロナ除けの御札をいただく。昼食を終えていよいよ本丸へいく。
本丸は城域の最高所の一段下に位置している。土塁の内・外や虎口も石垣で固められている。野面積みの迫力ある石垣だ。曲輪も広く居館があったことが想起される。
本丸から石段を降りて伝平井丸へ向かう。この石段は安土城を想起されるような直線的な石段だ。
伝平井丸の石垣で固められた虎口は、まるでミケーネ遺跡を連想される。これは城館として築かれた石垣なのか、それとも山岳寺院ならではの技術なのか。この曲輪の役割を考えさせられる。
伝池田丸も石垣で固められた土塁がめぐってる。ここも広い曲輪だ。外側にも立派な石垣が築かれているが、全てを見ることができないのが惜しまれた。
「大石垣・女郎岩」という標識を辿って、伝池田丸南側の斜面を降りてきた。岩場が剥き出しになった場所にでた。新幹線が見えた。向こうの山並みが安土城のように見えた。あとから気がついたが、この方面からは安土城が見えない。本丸からも安土城が見えないのだ。観音寺城が南方面を意識して築かれていることを実感させられた。
城域内で最高所の伝沢田丸の土塁へ行く。ここまで登るためには、傾斜のキツい石段を使わなければならない。観音正寺と本丸をつなぐ山道から分岐するこの石段は、城の遺構なのだろうか、山寺の遺構なのか。この城は、城なのか寺なのかわからない。石段の途中で石垣を見せつけられた。
大土塁の頂部へ登りきると、「三角点・近江風土記の丘」という看板を見つけた。こちらへ行くと繖山の山頂、そして安土城考古博物館へ行くのか?前日にネットで調べたときは、そのようなルートの存在を知らされなかった。本当に降りられるのだろうか。
疑問を棚に上げ、大土塁を東へ辿る。三国岩にも石垣を見つけた。土塁上に石垣を築くのは何故だろう。虎口なのだろうか。
しばらく大土塁を進むと巨岩の露頭が現れた。そしてその上には大きな石碑の裏側が見えた。表に回ってみると、「佐佐木城址」という字が彫られていた。どうやら伝馬場丸のあたりに来たようだ。大土塁南側の曲輪群はほどんどが薮に覆われており、曲輪の位置関係がわからなかった。今日は薮を漕ぐ心の余裕がなかった。
再び大土塁に戻り、階段を降りる。伝布施丸の西側に出てきた。まったく広大な城である。城の全ての遺構は半日では見切れそうにない。
もう一度奥の院の雄姿を見ながら観音正寺への参拝道を歩くと、ねずみ岩という巨岩が現れる。ここからも大土塁方面へ上がれそうな道があったので、登ってみる。石段は巨岩群の中をクランクしながら上がっていく。途中には石垣が威圧するように築かれていた。
さらに登ると、先程の「佐佐木城址」碑の建つ巨岩に戻ってきた。このルートは城内道として使われていたように思われた。
その後、大土塁上を西へ戻り、もう一度伝沢田丸の土塁まで来た。繖山方面の尾根から考古博物館へ降りれるのか、気になっていたからだ。
旅程当初の予定では、3日目は観音寺城を楽しんだ後に、安土城考古博物館での明智光秀の特別展を拝観する予定だった。しかし、初日の雨で断念した飯盛城を、3日目の午前に登城したため、特別展の拝観は半ば諦めていた。
時計は15時を指していた。このルートから降りれば、まだ間に合うかもしれない。意を決して、繖山方面へ足を進めた。
観音寺城は繖山の南側に築かれている。繖山の山頂は城域には含まれていない。その意味でもこの城は南側を意識して築かれているように思われる。
繖山山頂の三角点についた。樹木の合間から安土城方面の景色が見えるが、全体を俯瞰することはできなかった。
案内板の標示を信じて考古博物館へ尾根を降りていくと、樹木が伐られ開けた場所にでた。思わず息を飲んだ。
安土城や琵琶湖まで一望できるパノラマである。向こうの山は八幡山城だろうか。私の知らない城跡も沢山視界に入っているのだろう。この場所は下調べしても掴んでいなかった場所だった。しばらく呆気にとられてしまった。
案内標示を信じて降りていくと、考古博物館へ行く道と安土城へ行く道の分岐についた。ここから尾根伝いに安土城へも行けるようだ。山道を降りていくと、近江風土記の丘の一角に出てきた。こんなところに観音寺城への登り口があったのか。繖山山頂から約30分程度で降りてきた。
無事、安土城考古博物館で特別展を拝観し、図録も買ってしまった。博物館を出ると、黒い雲が空を覆い、比叡山方面の空が夕焼けで赤く染まっていた。
帰路につく。安土駅へ向かう道では、琵琶湖からの寒風と小雨が吹き付けてきた。冬の気配を感じる。あたりは暗雲で覆い尽くされようとしていた。
ゆきあたりばったり関西(4)
前回↓
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3日目
午前3時に目が覚めた。今日は朝駆けで、初日のリベンジをせねばならない。
早々にホテルのチェックアウトを済ませ、電車が烏丸駅を出発したのは5時だった。
“大阪”というと大阪市の中心部を想像しがちであるが、大東市・四条畷市に位置する飯盛城は畿内に一大勢力を築いた戦国大名三好氏の本拠でもあった。
野崎駅についたのは6時半。自分の予習によると、野崎観音から登ると城の正面に入れるようだ。
野崎観音の裏山を登ってしばらくすると、野崎城に行き着く。飯盛城の支城だろうか。堀切が確認できた。
ここから約1時間、心細さを同伴しながら山道を行くと、石垣で固められた虎口が出現した。
側面の南の丸から横矢をかけられるようだ。
千畳敷は巨大な居住空間である。流石三好の本拠だけある。ここで様々な政治的・文化的活動が行われていたのだろうか。
FM送信塔から北側は鞍部へ下る坂道となり、底が堀切となる。この北からはいよいよ要害部分である。
岩盤の露頭をよじ登ると、大阪平野を一望できる本郭にたどり着く。そこでは、三好の勢力下だった城が手に取るように眺めていたであろう、城の主の姿を想像できた。
本郭部分から北に行くと堀切を挟んで、御体塚丸が現れる。こ曲輪のド真ん中に“御体塚”と称される岩場が鎮座する。ここに三好長慶が埋葬されたのだろうか。これは岩盤の露頭なのか、それとも石を積んだものなのか。心得のない自分には疑問に感じる物体だったが、“聖なる空間”であることはすぐにわかった。
御体塚丸の北側の堀切は、岩盤を削った見事なものであった。
その北の曲輪の先からは大阪平野だけでなく、京都方面まで、三好の勢力圏を見渡せる場所がある。なるほどここを本拠にしたいわけだと得心してしまう。
この城の東斜面には、かなり古風な石垣が随所に確認できた。特に御体塚丸南側の鞍部のものは見事であった。なぜ東斜面に集中するのだろうか。東から城へ登るルートが正規の道だというが、大和方面を意識しているようにも自分には感じられたが、妄想に過ぎない。
楠公寺に参拝する。東側の麓からこの寺へ上がる道があるようだが、残念ながら確認できなかった。
満足感に浸りながら飯盛山を下山する。次の目的地まで間に合うだろうか。
つづく↓
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ゆきあたりばったり関西(3)
前回↓
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慈照寺の門前で約束のメンバーと合流し、いよいよ大文字山へ。リアルでは初対面だったが、打ち解けた雰囲気で山を登る。
大文字の火床は、京都盆地を一望できた。こんなパノラマが楽しめる場所は、関東には少ないだろう。ましてや大学の近くで。
祝日のためか、火床には人が多かったが、火床から更に登ると、人影は減った。問題の如意岳城はこの先にあるという。頂上まで遺構は見当たらなかったが、東へ少し下ると横堀が見えてきた。
曲輪は不整形だが北と東に向けるように横堀が張り巡らされている。この方向を意識して築城されているようだ。
居住よりも合戦を意識した陣地という印象をうけた。あるいはこうした城郭を検討することは、当時の合戦様式を考える上で重要な素材になるとさえ思われた。
議論しながら城を歩くのは楽しい。縄張図も描きたくなる。その藪の中には、まだ研究の余地が残されていると感じた。
次はいよいよ“将軍の山城”へ。と意気込んでみたものの、中尾城は呆気ない遺構だった、後世の改変があるとはいえ、どの程度の期間使用されたものだったのか、いま一度検討の余地がありそうだ。
離れた場所にある出城の遺構は、本当に城といえるのだろうか。近代あたりに切り出されたような石の破片が転がっていた。
山を降りると日の入りを迎えていた。振り向くと大文字山は赤く染っていた。
「文献史学から城館を研究する方法論を考えなければならない」
山を登りながら議論したこの言葉が、頭の中を反響する。
酒も入れつつもっと話したいが、おのおの次の日の予定がある。名残惜しさを感じつつも、再会を誓って百万遍のバス停にて解散した。己も自らの研究を頑張らなければならない。
つづき↓
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ゆきあたりばったり関西(2)
前回↓
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2日目
そもそもこの旅は、博打のように始まった。
以前からオンラインで交流していた関西の城好き学生たちと、リアルで城を歩いてみたい。安易な気持ちで彼らを誘ってみたら、快く応じていただいた。だがその旅程に関して、すぐにこちらから提案をすることができなかった。
それは大学院の課題や職務をほったらかしにしていたからだ。これらを犠牲することに後ろめたさを感じていた。一方で、この窮屈な焦燥を少しでも解放したいという現実逃避の感情も芽生えていた。葛藤の末、後者が勝ってしまった。こうして逃避行が始まった。
2日目は朝から秋晴れだった。彼らとの城歩きは午後から始まる。午前中は前日の汚名を返上すべく、レンタサイクルで思う存分史跡を巡った。
本能寺跡、妙顕寺城跡を写真におさめ、二条城を横目に聚楽第跡地を放浪した。聚楽第跡は住宅街になっているが、自転車で回っているだけでも、確かに往時の痕跡を思わせる地形の高低差に出会う。大名の屋敷跡も聚楽第のすぐそばにあるものだ。
西陣を確認したら花の御所も確認したくなる。その近くには京都御苑。蛤御門ではランナーがまじまじと銃弾の痕を見ていた。
歴史の舞台の中に身をゆだねる。行った覚えのない史跡は、案外自転車でまわれてしまうものだ。また来た時も自転車を使おう。
賀茂大橋を越えると、学生の姿が多くなる。今日は百万遍の知恩寺で古本市だそうだ。
京大キャンパスを突っ切ると、すぐ脇には吉田神社があった。こんなところに吉田山があるのかと、己の地理感覚が更新されていく。
参拝を終えたら、メインディッシュの慈照寺へ。室町時代の東山文化の中心である。義政のお茶の井を見たのちは、展望所へ。吉田山が近くに見える。紅葉が色づきはじめ、なんともいえない風情に心洗われた。
銀閣寺垣を抜け門前に帰ったが、西陣でふと目に入った、考古資料館の明智光秀の展示チラシが頭から離れなかった。もう一度今出川通に自転車を走らせ、資料館で展示を楽しんだ。これが無料とは。
今出川通を往復すると、正午を過ぎていた。百万遍で昼食を終え、いよいよ待ち合わせの慈照寺へ向かった。
つづき↓
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