ゆきあたりばったり関西(1)
1日目
新幹線を降りると、京都は雨だった。
大阪の山城に行くはずだったが、寝坊と降雨で計画変更せざるを得ないらしい。
とりあえずホテルに荷物を預け、上賀茂神社に向かった。大学院の授業では上賀茂神社の文書を読ませていただいているので、まずはご挨拶に行きたかった。
一の鳥居に入ると、二の鳥居まで大きな広場となっている。ここで有名な競馬が行われるのだろうか。いつか見てみたいな。
二の鳥居を入ると、立砂が参拝者を迎える。立砂は本殿北北西の神山を象ったものという。神山は雨雲に隠れてしまい、見ることができなかった。
楼門をくぐり、中門にて参拝する。特別拝観の時間は運悪く終わってしまい、社頭の外観を眺めることしかできなかった。
肩を落としながら、ならの小川沿いを歩いた。
スマホの地図を見ながら、やるせない気持ちを紛らわせていると、近くに「御土居」の跡があるらしいことがわかった。もう日の入りまで時間はない。御土居の跡地を辿りながらぶらぶらしてみるか。
北区柴竹の加茂川中学校前で、初めて御土居を見た。街中に突如として土塁があらわれる様相は、小田原の惣構の土塁を見た時と似た感覚だ。
柴竹の御土居から西へ向かう。このあたりは御土居のラインが道路に残り、往時を想像することができる。
大宮土居町の御土居についた。ここは最も保存状態がよく、NHKブラタモリでも紹介されたものだ。金網越しではあるが、ダイナミックな横堀と土塁に思わずうなった。ここは北西から南東にかけて、台地上の高まりが続いているが、この御土居は完全にこの台地を断ち切るように横堀を掘っている。自然地形にあらがうように築かれたこの装置は、豊臣政権の力を示している。
御土居の痕跡を数箇所確認すると、船岡山も近くにあるらしい。戦国時代には合戦の舞台になっているのに、京都の街のド真ん中に鎮座している。雨の中登ってみたが、暗くて城跡の痕跡は確認できなかった。
真っ暗になったのでフラフラと堀川通りに向かった。無計画でゆきあたりばったりな初日が終わった。
つづき↓
oshiroetcetera.hatenadiary.com
おうち時間に読んだ日本中世史本5選
こんにちは。
新型コロナウイルスの影響が続く今日、お元気でお過ごしでしょうか。幸い自分は健康に過ごしております。
このコロナ禍による外出自粛中、いい機会だったので、買いためて読んでいなかった歴史本(特に日本中世史)をかなり消化しました。今までで一番本を沢山読みました(笑)。
今回は、その中から特に面白かったオススメ本を紹介します。なお、既にTwitterの方でも読書記録をツイートしているので、それを補足する形で紹介します(手抜き)。
目次
- 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ、2006年)
- 金子拓『記憶の歴史学 史料に見る戦国』(講談社選書メチエ、2011年)
- 長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019年)
- 網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2019年)
- 湯浅治久『中世の富と権力 寄進する人びと』(吉川弘文館、2020)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ、2006年)
清水克行氏『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ、2006)読了。喧嘩両成敗という奇妙な法から、室町時代の紛争や法意識に迫る。強烈な自尊心・帰属意識や独特の衡平感覚を持った室町人は、中人制・解死人制等の「折中の法」を生む。喧嘩両成敗法を形成した彼らの気質は、近世以後も命脈を保ち続ける。 pic.twitter.com/Bid6j8ouME
— まさじい (@enshujoukaku) 2020年4月19日
日本人の中に潜む自力救済
喧嘩をした両者に平等の処罰を加えるという「法」、現在の裁判などではなかなか見られない観念ですが、中世の人々はそれを受容していました。復讐の正当化や、やられた分だけやり返すという衡平感覚など、自力救済に訴える中世人の姿を明らかにしています。また、自力救済から公正な裁判での決着へ、戦国大名やその後の権力が果たしたことは何か?そして中世人の法感覚は消えてしまったのか?日本人の一面に迫る一冊です。
金子拓『記憶の歴史学 史料に見る戦国』(講談社選書メチエ、2011年)
金子拓氏『記憶の歴史学 史料に見る戦国』(講談社選書メチエ、2011)読了。 過去の出来事を記憶する人間がどのように記録し、如何に歴史的事実として定着するか、本能寺の変、細川ガラシャ自害等を事例に、日記・覚書・文書の伝来から考える。記憶の形成の点から史料の扱い方を考え直す重要性を学んだ。 pic.twitter.com/dVsMgqljAa
— まさじい (@enshujoukaku) 2020年5月2日
「記憶」が「歴史」になるまで
過去のある時点に発生したできごとや事実が、史料にどのように記憶されて記され、それらが歴史家によって検討・解釈され一般的にも受け入れられた解釈としての「歴史的事実」になるまでの過程を追っています。中世史というよりは近世史に近いですが、特に戦国時代の記憶がどのように歴史的事実になるのか述べられています。永井荷風の日記『断腸亭日乗』と、戦国・織豊期の公家吉田兼見の日記『兼見卿記』を比較し、古記録と記憶の関係を考察する視点が面白かったです。本能寺の変や細川ガラシャの自害事件、大坂の陣など、歴史的事件を当時の人びとがどのように記憶を残したか。その記録は後世の人びとによってどのように伝わり、解釈され、定着したのか。「歴史」が生まれる過程を考えさせられる一冊です。
長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019年)
長澤伸樹氏『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019)読了。「楽市楽座」は何を意図し、近世に何をもたらしたか?関連史料22例の丹念な読解と由緒の視点から「楽市楽座」が出された各地域特有の事情や実際の経済効果を検討し、その歴史的評価に疑問を呈する。「楽座」の本質に迫る筆者の見解も興味深い。 pic.twitter.com/vQIPalsclm
— まさじい (@enshujoukaku) 2020年5月6日
楽市楽座の実際に迫る!
中学・高校の時に習った「楽市楽座」、最近の日本史の教科書では「楽市令」として紹介されていますが、「楽座」の方はどうなったのか?商工業者に自由な営業活動を認めるという商業振興政策として知られるけど、実際の経済効果はどうだったのか?楽市をやったのは織田信長だけじゃない!戦国大名が発令したものも含め、全国に出された「楽市楽座」の事例は、実は22例しか確認されていません。本書ではその全てを検討しています。また「楽市楽座」が近世に何をもたらしたのか?楽市令が出された市が近世に記した由緒にも注目しています。意外とわからないことが多い「楽市楽座」の姿を考える一冊です。
網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2019年)
網野善彦氏・石井進氏・笠松宏至氏・勝俣鎭夫氏『中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2019)読了。原本は1983年刊。現代では解し難い中世の犯罪と刑罰、法意識について4人の論稿と討論から考察。特に「穢」や「祓」等の観念は現代の法感覚とは異なるが、コロナ禍を生きる我々に通底するものを感じた。(続) pic.twitter.com/BOHeM5uN6Y
— まさじい (@enshujoukaku) 2020年5月8日
(承前)また、「四人組」とよばれた筆者らの討論からは、相互に疑問点をぶつけあいながらも、中世人の法意識についての共通理解が深まっていく様子が読み取れ、非常に興味深かった。一読したのみだが再度読み直して難解な点は反芻し、何度も味わいたいと思う1冊だった。
— まさじい (@enshujoukaku) 2020年5月8日
中世史の大家による「記念碑的名著」!
中世日本の犯罪と刑罰について刺激的な論稿と討論がなされています。「お前の母ちゃん出べそ」のルーツが語る「悪口」の系譜や、「家を焼く」という行為から、中世社会の犯罪が持つ「穢れ」の観念を明らかにしています。また耳鼻削ぎ刑や死骸そのものへの尊崇の念など、現代とは異なる犯罪観・刑罰観が述べられています。しかし、どの事象も現代での社会問題にも通底していると感じるものもあり、現代人の常識を相対化する一冊だと思いました。
湯浅治久『中世の富と権力 寄進する人びと』(吉川弘文館、2020)
湯浅治久氏『中世の富と権力 寄進する人びと』(吉川弘文館、2020)読了。他者にものを譲渡する「寄進」という行為の意味や、寄進された富の行方から中世社会を考える。「寄沙汰」や「売寄進」などの様々な寄進のやり方や、寄進された富が地域の金融を担う「結社」を構築する点など非常に興味深かった。 pic.twitter.com/AgWytcrocy
— まさじい (@enshujoukaku) 2020年5月10日
「寄進」から見えてくる中世社会
他人にものを譲渡する「寄進」という行為は、現代でも「寄付」という形で身近に現れます。このコロナ禍でもマスクの寄付がなされていたり、災害時には企業による被災地への寄付も行われています。日本中世でも「寄進」という行為が、紛争解決の手段として、または地域の金融活動の一環として行われるなど、今よりも様々な意味を含んでいました。こうした「寄進」という行為に対して、権力がどのように対応したのか明らかにしています。また比較史の視点から、日本中世の「寄進」を世界史の中からも見つめています。「寄進」という行為を見直す一冊です。
こんな形で、おうち時間はひたすら読書に打ち込んでいた日々でしたが、一方で世の中は大きく変わっている印象を受けました。大学はオンライン授業となったり、仕事は在宅勤務になったりするなど、 数ヶ月前では考えられなかったことが起こっています。そして「新しい生活様式」への模索も始まっています。
おうち時間で読んだ歴史の本は、今という生活や社会を客観的にとらえ直す視点を、沢山もたらしてくれた気がしました。これからも勉強を続けていきたいです。
お題「#おうち時間」
城に木が生えていること(1)
先日、以下の記事を見つけた。
shirobito.jp
当情報サイトは初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を解説するものらしい。冒頭の記事では「山城には木が生えていなかったって本当?」と題して、以下のように解説されている。
軍事施設としてバリバリ使用されていた当時の山城は、ほとんど木が生えていなかったといわれています。さて、これは一体なぜなのでしょうか?
自然の山を利用した山城。せっかく高い所に陣取っているのですから、敵がどこから攻めてきてもすぐに把握できるように、360度の視界を確保した方が得策です。そのためには、視界を遮る木々がない方がいいですよね。また木々が生い茂っていると、侵入した敵兵が隠れることもできますし、斜面を登るための足場にもなってしまいます。木がないことで敵の状況を知り、敵を寄せ付けないこともできたのです。また、城の存在やその威容を敵に誇示する効果もあったでしょう。
私もかつてはそのように理解していた。しかし、城に関する史料や論文・文献に触れるうちに、「城に木が生えていなかった」とは必ずしもいえないのでは?」と思うようになった。
このエントリでは、城に木が生えていることに、どんな意味があったのか考えていきたい。
【目次】
目隠しに用いられた木
前掲記事からの引用文には続きがある。
とはいえ、「やたらと木を伐るな」と書かれた史料もあり、まるっきりの禿げ山にしていたわけではないことがわかってきています。敵に見せたくない重要な部分の目隠しや、普請(土木工事)の効率化のため、役に立つ木・伐る必要がない木は残すことにしていたようです。また、木をすべて伐ってしまうと山の保水力が落ちてしまい、ライフラインである井戸の水が出なくなったり、大雨で山が崩れてしまったりという心配もあるので、山の特徴にあわせてそれぞれ調整していたのでしょう。
引用にある通り、城内の樹木は敵からの目隠しの役割や、水源を確保する役割を果たしていた。
戦国大名朝倉家に伝えられたとされる故実書『築城記』には以下のような条文が見える(『群書類従 第23輯 武家部』続群書類従完成会、1960)。
一、城の外に木を植まじき也、土ゐの内ノ方に木を植て可然也、
城の外には木を植えてはいけない、城の土塁の内側に木を植えるのがよいとする。これも城内を敵の視線にさらされないようにするためのものと考えられる。
また、天正元年5月に、上杉謙信が河隅三郎左衛門尉・庄田隼人佑に命じた書状には、次のような文言が見られる(上杉謙信書状『上越市史』別編上杉氏文書集1158号「岡田紅陽氏所蔵文書」 https://www.touken-world.jp/search-art/art0005650/ )。
又ぢんしゆに、さかい・みやざきの竹木きらせましく候、きり候へハ、むらようかいなを〱てあさに見なすものニ候、
謙信は、「ぢんしゆ」(陣衆=上杉方の軍勢)に、「さかい」(=越中国 境)と「みやざき」(=同国宮崎)での竹木伐採を禁止している。竹木を切ると「むらようかい」(=村要害)が手浅く見えてしまうとして、伐採禁止の理由を述べている。村要害とは、境や宮崎の住人たちが領土を防衛するために籠る砦のようなものと考えられる。砦の内部が見通せてしまうと、敵から攻め落としやすく見えてしまうため、木々で目隠しを施す必要があったとみられる。
このように、城の樹木は敵から城内を見通されないための目隠しとしての役割があったと考えられる。
水源を維持する木
先にもあげた『築城記』は、戦国時代の築城テキストとして知られる。その第1条に、次のような記述がある(『群書類従 第23輯 武家部』)。
山城ノ事可然相見也、然共水無之ハ無詮候間、努々水ノ手遠はこしらへべからず、又水ノ有山をも尾ツヾキをホリ切、水ノ近所ノ大木ヲ切て、其後水の留事在之、能々水ヲ試て山を可拵也、人足等無体にして聊爾ニ取カカリ不可然、返々出水之事肝要候条分別有ベシ、末代人数の命を延事は山城ノ徳と申也、城守も天下ノ覚ヲ蒙也、日夜辛労ヲ積テ可拵事肝心也、
山城はそれ自体が立派に見える。しかし、水が無くてはしかたがないから、決して水の手を遠くに造ってはならない。また水が出る山の尾根を掘りきったり、水の近くの大木を切ったりすると、その後に水が止まってしまうことがある。念を入れて水の確保を考えて山城を築かなくてはならない。人足たちがむやみにいい加減に取り掛かってはならない。くれぐれも水の確保の事は肝要であるから、よく考えて判断しなさい。後世まで軍勢の命を延ばす事は山城の徳というものである。城主も天下の声望を得るものだ。日夜身を粉にして(城を)造ることが肝心である。
上のように『築城記』第1条では水の確保の重要性が繰り返し述べられている。傍線部にもあるように、水の近くの大木を切ると、水が止まってしまうと注意している。
城における木と水の手の関係は、鷲頭山砦(静岡県沼津市)について述べられた次の史料にも見られる(北条家朱印状写『戦国遺文後北条氏編』2296号「判物証文写北条」)。
鷲津山水曲輪より上ニおゐて、不可木切候、各存其旨、堅可申付者也、仍如件、
辛巳
十二月十二日(虎朱印) 垪和伯耆守 奉之
礒彦左衛門尉殿
番衆中
戦国大名北条氏が鷲頭山砦を守る軍勢に対して、水曲輪よりも上の場所で木を切るなと命じている。
竹井英文氏は、上の史料について、「水曲輪は井戸がある曲輪と考えられるので、伐木による水脈の乱れを警戒してのことと考えられる」としている(竹井英文『戦国の城の一生』吉川弘文館、2018)
確かに城の樹木は、山の水脈を保ち、水を確保する役割を果たしており、むやみに伐採してはならなかったのである。
障害物としての木
城に生える樹木は、防御施設としての役割を果たしていたとも考えられている。
天正6年5月、北条氏政が、荒井釣月斎という人物に宛てた書状の中に、次のような文言が見える(北条氏政書状写『戦国遺文後北条氏編』1991号)。
抑三日以来者、毎日結城・山川押詰、竹木迄伐払候、
北条方はこの時、下総国結城城・同国山川城を攻めていた。両城に接近した軍勢は、竹木を切り払っていたという。戦国期の城における森林の役割を検討した佐脇敬一郎氏は、上の史料について「山川城に接近した北条氏は、障害となる森林や立ち木を切り払ったのではないのだろうか。」と推測している(「戦国期の城と森林」『戦国史研究』55号、2008)。
このように、城を攻める敵にとって、樹木が障害物となった可能性も十分に考えられる。
それだけではない、城の樹木の役割
以上のように、城に生える樹木には、
①目隠しとしての役割、
②水源を維持する役割、
③障害物としての役割
があったと考えられるが、これらの役割については、冒頭の記事でも既に述べられている。
しかし、城に生える樹木には、もう一つの重要な役割があったと考えられている。
その役割とは……次回のエントリで述べていきたい。
↓今回のエントリでお世話になった参考文献↓
竹井英文『戦国の城の一生―つくる・壊す・蘇る―』(吉川弘文館、2018)
www.yoshikawa-k.co.jp
近況。
ご無沙汰しております!
しばらくこのブログの更新が滞っており、己の怠慢ぶりを恥じ入るばかりですm(_ _)m
前回のエントリ以来、半年以上の歳月が過ぎてしまいました。この間、多忙を極めており(というより心に余裕がなく)、ブログを書くという行為へのエネルギーがなかったです笑
今までのエントリを改めて見てみると、なかなかヘビーな調べ物をして書いてるものが多く、気軽にブログを更新することも大事だなあと思い、今は徒然なるままにこのエントリを書いてます。
近況。私事にはなりますが、卒業論文を無事提出し、単位取得も確認し、晴れて大学卒業という段階です。卒業式は新型コロナウイルス感染防止のため中止となりましたが。進学先も決定し、とりあえず残り少ない大学生活を楽しみたいと思っています。
なんだかんだ卒論でも城郭のことをやり、未だに日本の城に魅せられています。当ブログは、城のことを末なが〜く、ちまちまと考えるためにつくったので、今後もポツポツと更新していけたらいいなあ。もちろん、城のこと以外も。
希望的観測だけ語っていてもどうしようもないですが。
近況、といえばTwitterをやっています。こちらは、開始からそろそろ8年ぐらい経つもので、細々と近況を更新しております。よろしければご覧くださいm(_ _)m↓
Twitterは使い慣れているし、文字数制限があることで、むしろ投稿しやすいという点で、重宝しています。
【2020,05,07追記】
Twilogも始めました。
こちらもよろしくお願いいたしますm(_ _)m 【追記終了】
ということで、当エントリは近況報告と、近況を報告するTwitterのご紹介でしたー。
(写真は仙台城)
小杉御殿(3) 小杉御殿の現在を歩いてみる
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こんにちは。お久しぶりです。
前回、「小杉御殿の跡地は現在どうなっているのかをみていきたいと思います。」と言い残しておきながら、ブラタモリの放送からほぼ1ヶ月を経過し、さらに季節も春を迎えようとしています(笑)
先日、時間を見つけてじっくりと現地を歩いてきました。おっかけブラタモリですね。今回は、そのレポートをしていきたいと思います。
(本エントリの写真は全て2019年3月5日撮影)
5、小杉御殿を歩く
①中原街道の供養塔
こちらはブラタモリでも紹介された供養塔ですね。
説明版には次のような解説があります。
川崎宿より五十年遅れて小杉もまた宿駅に指定された。供養塔にも稲毛領(いなげりょう)小杉駅とある。台座の「東江戸、西中原」は街道が平塚の中原と江戸を結ぶ道であることを示している。
この供養塔から東の江戸の方向に進むと、中原街道は北へクランクします。
②中原街道のクランクと小杉御殿の表門
中原街道がクランクした先に、小杉御殿は位置しています。街道が曲がったあたりに、御殿の表門がありました。
平塚の中原から江戸へ向かう旅人は、このクランクを曲がったときに、小杉御殿の表門に圧倒されたのでしょうか。
表門から西へ、西明寺の方面に少し歩くと、小杉御殿の碑が現れます。
また、この石碑の裏手に回ると小杉御殿の説明版があります。こちらに掲載されている「小杉御殿見取絵図」が、冒頭に紹介したものになります。
解説文には次のようにあります。
「小杉御殿と「カギ」の道」
御殿の敷地はおよそ一万二千坪(約四万平米)。絵図に表御門、御主殿、御殿番屋敷、御賄屋敷、御蔵、御馬屋敷、裏御門などが示されている。
中原街道はここでカギ形に曲っている。城下町でよく見られるカギ形の道は防衛のために工夫されたもの。背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺もあわせて御殿の守りが固められていた。
③小杉御殿の内部へ
いよいよ小杉御殿の内部に入っていきます。表門跡の場所から北上すると、左手に西に細長い路地が現れます。
「絵図」によるとこの先に、将軍が宿泊した「御主殿御休息之間」があったようです。今はどうなっているのでしょうか。
つきあたりまで行くと、そこにはお稲荷さんが祀られていました。
近くの解説には次のようにあります。
川崎歴史ガイド●中原街道ルート
「小杉御殿の御主殿跡」二代将軍秀忠が建てた小杉御殿は、家康の送迎のほか、鷹狩りの休息所などに使われた。後に東海道が主街道となると、御殿は廃止される。この辺りに御殿の中心、御主殿があった。
この場所に将軍が休息に訪れたようです。今は住宅地のど真ん中にひっそりと祠が建っています。
④御殿の境界
「絵図」には御殿の西側を多摩川へ向かってのびる道が描かれています。現在も西明寺の脇の道として、その名残が残っています。これが小杉御殿の西の境界と考えられます。
御殿の東の境界は明確にはわかりませんでした。「絵図」によると御殿の東には、「御殿番屋敷」や「御賄屋敷」などの施設があったようです。
ところで前回、小杉御殿の御殿番の井出氏を紹介しましたが、この「御殿番屋敷・御賄屋敷」周辺に「井出」という表札のある家を見かけました。御殿番井出氏の末裔の方のお宅かわかりませんが、この付近が御殿の東側であったことは考えられるでしょう。
⑤小杉御殿の御蔵
小杉御殿の北を区切る道を西へ進むと、北側に路地が現れます。これを北上すると、またお稲荷さんが現れます。
説明版の解説文には、ここに小杉御殿の御蔵があったことが記されています。
この辺りに小杉御殿の御蔵があった。御殿は、当時このすぐ裏側を流れていた多摩川を背後の守りとしていた。川の流路が変り、その頃の川筋は今、等々力緑地となっている。
「絵図」にも「郷御蔵敷」という記載が見られ、御主殿との位置関係からしても、この場所に御蔵があったのは確かでしょう。
御蔵稲荷には、「小杉御殿跡之碑」という古い石碑もあります。
「小杉御殿跡之碑」
徳川二代将軍秀忠公が鷹狩の際や中原街道を経て相州中原御殿への中宿として慶長十三年(一六〇八年)着工 中原街道の北側一万二千坪の地に表御門裏御門あり 下馬札が立てられ御賄御蔵御殿番陣屋等の屋敷が棟を並べ規模大であった 約五十年後に建物の一部を品川の東海寺に 更に上野弘文院へ賜はり御殿は廃止となった 此所は御蔵屋敷の跡で御蔵稲荷といわれ陣屋跡御主殿跡にも稲荷社がある
神地石留刻
昭和三十二年八月十八日
武蔵中原観光協会建之
⑥用水路と旧多摩川の痕跡
御蔵稲荷の道を西へ少し進むと、住宅地の隙間に不自然な縦に細長い空間を見つけました。これは「絵図」にも記載されている、「用水堀」に相当する水路、または水路の痕跡と思われます。
さらに西へ進むと等々力緑地に突き当たります。御蔵の説明版にもあるように、ここが多摩川の旧流路でした。その証拠に小杉御殿の場所よりも低地となっています。
小杉御殿は、蛇行する旧多摩川が作り出した自然堤防上に選地し、中原街道をクランクさせることで交通路を掌握していました。
このような立地条件は、当時の近世城郭にも共通するところがあると思います。
⑦小杉陣屋跡
小杉御殿から北東に位置する小杉陣屋は、江戸幕府から代官として任命された小泉次大夫が民政の拠点とした場所です。
現在この場所は小さな公園となっています。
またこの公園の近くには、お稲荷さんが祀られています。
説明板には、
川崎歴史ガイド●中原街道ルート
「小杉陣屋と次大夫」稲毛領、川崎領を潤す二ヶ領用水の建設。徳川家康の命を受けた代官小泉次大夫は、ここに陣屋を設け十四年に及ぶこの難工事の指揮に当った。地名「小杉陣屋町」はこれにちなむ。
とあり、小泉次大夫の足跡が述べられています。
以上、見てきたように、小杉御殿は、中原街道を抑える要地に位置しており、小杉陣屋の小泉次大夫も、この地勢を生かして、代官として民政に従事したのでしょう。
小杉御殿や小杉陣屋の主要な施設には、現在稲荷社が建立されており、御殿・陣屋の歴史を今に伝えています。
よりみち:等々力緑地を歩く
小杉御殿を歩いた後、等々力緑地も歩きました。
等々力緑地には、サッカーチーム、川崎フロンターレの本拠地、等々力陸上競技場があります。
さらに進むと、川崎市市民ミュージアムが見えてきます。
この川崎市市民ミュージアム、なんと博物館展示室が無料なのです。原始から現代までの川崎市の歴史を概観できる、興味深い展示がなされています。小杉御殿に関しても触れられていました。川崎という地域への理解を深めるのにオススメです!
最後は、等々力緑地から見た等々力陸上競技場と、武蔵小杉のタワーマンション群を見てお別れです。
【参考文献】
村上直「小杉御殿と小杉陣屋に関する一考察」(『川崎市史研究』創刊号、川崎市公文書館、1990年3月)
『川崎市史 通史編2 近世』(川崎市、1994年3月)
小杉御殿(2) その後の御殿
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こんにちはー。前回からブラタモリにも出演した小杉御殿について、掘り下げてきました。前回は、主に小杉御殿の成立段階といった感じでした。
今回は、徳川家康死後の小杉御殿を見ていきます。
3、その後の小杉御殿
①新規造営と解体
『大猷院殿御実記』(巻40)に、寛永16年(1639)に葛西(青戸)・府中・船橋・稲毛(小杉)・中原・越谷の各御殿に対して、修理のための普請の奉行が任命されたという記事があります。「稲毛」と呼ばれた小杉御殿には、小姓組の安藤市郎兵衛忠次と、大番の小俣平右衛門政貞の両人が奉行に任ぜられ、修理に伴う新規造営が行われたとあります。
貞享5年(1688)に記された「小杉御殿沿革書上」という記録にも、安藤と小俣の両人が、寛永17年(1640)に小杉御殿を新規造営したとあり、寛永16~17年頃に御殿の修理が行われたことは確かなようです。
「小杉御殿沿革書上」では続けて、その15年後の明暦元年(1655)に、御殿の一部が解体され、品川の東海寺へ遣わされたとあります。この時の担当の奉行は夏目彦助という人物でした。
また、享和4年(1804)2月の小杉村の「村方明細帳」などの文書によると、万治3年(1660)に御殿の取り払い(廃止)がなされたとあり、寛文元年(1661)には御殿敷地内の竹木が取り除かれたようです。
御殿の御主殿の間は、寛文12年(1672)に、上野の弘文院に遺されたとされます(「小杉御殿沿革書上」)。この時は担当の奉行はいなかったようです。
御殿の土地は、延宝2年(1674)より作場(田畑)となり、延宝7年(1679)には高入(村高に編入されること)となりました。
このように、小杉御殿は万治3年頃にはその機能が停止し、寛文12年頃には建物も完全になくなり、年貢負担地として扱われるようになったと考えられます。
②御殿番、井出氏
享和4年(1804)2月の小杉村の「村方明細帳」によると、小杉御殿が新規造営された寛永17年に、御殿の管理人=「御殿番」として、先手頭新見新右衛門組同心であった井出七郎左衛門が任ぜられたとあります。
この「御殿番」は、寛永12年(1635)の「御殿番勘定帳抄」によると、葛西・越谷・小杉御殿に5人、神奈川御殿に2人置かれていたといわれています。
小杉御殿の「御殿番」に任じられた井出七郎左衛門は、万治3年に御殿が取り払われるまで、約20年間にわたって御殿番を勤めたようです(「村方明細帳」)。
また、井出六大夫という人物も「御殿番」に任じられており、切米20俵2人扶持が給されていたが、延宝6年(1678)に役替えされ、河船役を勤めることになったとみられます(「小杉御殿沿革書上」)。
井出七郎左衛門と六大夫との関係性はわかりませんが、代々井出氏によって御殿番が勤められていたと考えられます。
③まとめ
徳川家康の死後、駿府の家康と江戸の秀忠による政治が解消され、将軍や大御所による往復や鷹狩りのための休泊の機会が減少すると、小杉御殿は、その存在意義を失ってきたと考えられます。幕府は、寛永16~17年頃の御殿修造や御殿番の任命により、各地の御殿の維持管理を図りますが、将軍の鷹狩りを目的とした民情視察の必要性の低下や、財政の窮迫により、小杉御殿は廃止に至ったといわれています。
次回は、小杉御殿の跡地は現在どうなっているのかをみていきたいと思います。
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【参考文献】
中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察―南関東の場合―」(『駒沢地理』14号、1978年3月)
村上直「小杉御殿と小杉陣屋に関する一考察」(『川崎市史研究』創刊号、川崎市公文書館、1990年3月)
『角川日本地名大辞典 別巻Ⅰ 日本地名資料集成』(角川書店、1990年11月)
『川崎市史 通史編2 近世』(川崎市、1994年3月)
小杉御殿(1) 祝!ブラタモリ出演!!
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小杉御殿! 祝!ブラタモリ「#125 武蔵小杉」出演っ!!
🎊🎉おめでとうございます🎊🎉
川崎市初上陸でした!!約10年前、ブラタモリ第1シリーズの「二子玉川」回……あともう少しで川崎市だった……あの時の屈辱を……見事に晴らしてくれました!!🙌
さて、興奮冷めやらぬ状態ですが…。今回ポイントとなった「小杉御殿」について、もう少し深く掘り下げたいと思います。
1、小杉御殿がつくられた時代
①家康の関東入部と武蔵小杉
天正18年(1590)、豊臣秀吉は、関東に大勢力を築いていた小田原北条氏を滅ぼし、天下一統を成し遂げます。当時秀吉に臣従していた徳川家康は、北条氏の領国であった関八州を与えられ、江戸城を居城としました。
慶長2年(1597)には、家康の息子、徳川秀忠が稲毛(武蔵小杉周辺)で鷹狩りを行ったという記録があります。(塩野適斎『桑都日記』続編)
この時、秀忠は疱瘡にかかったらしく、伏見にいた家康から医師白元が派遣され、まもなく快癒したということです。
この頃すでに、小田原から藤沢・神奈川を経て江戸に至る東海道筋のルートが、主要幹線となっており、慶長元年(1598)には、藤沢御殿や中原御殿が造営されていました。このルートから外れている武蔵小杉周辺は、主に鷹狩りのために利用されていたようです。
②大御所家康と小杉御殿
その翌年の慶長3年(1598)、秀吉が死去すると、家康は豊臣政権内で力をのばし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、石田三成に勝利し、三年後に江戸幕府を開きます。
そして家康は、慶長10年(1605)には秀忠に将軍職を譲り、慶長12年(1607)には駿府に移って大御所政治を展開し、江戸と駿府を頻繁に往復するようになります。
江戸―中原(平塚市)間を結ぶ脇街道の中原街道は、主に鷹狩りのために利用されるようになり、休泊所の設置が必要となりました。
そこで中原街道における多摩川の渡河地点にあたる小杉村に、仮御殿が築かれます。これが後の小杉御殿です。
貞享5年(1688)に記された「小杉御殿沿革書上」という記録には、この仮御殿は慶長13年(1608)頃に築かれたとされています。
2、武蔵小杉周辺での鷹狩り
①慶長16年の鷹狩り
慶長16年(1611)10月に、駿府にいた家康は鷹狩りのために関東に赴いています(『駿府記』)。
この時家康は、本多正純・安藤直次・成瀬正成・松平正綱・村越茂助などの側近や豪商後藤光次が供奉していたといいます。小田原では本多正信、中原御殿では安藤重信が家康を迎え、藤沢御殿を経て、神奈川御殿では、秀忠自らが出迎え、家康と対面したといわれ、かなり大掛かりな旅だったようです。
15日に家康は、稲毛(武蔵小杉あたり)で鷹狩りを行い、白鷹ではじめて真名鶴を捕獲し、大変満足な様子だったというエピソードが残っています。この時、小杉御殿が使用されたのでしょうか。
②慶長17年の鷹狩り
翌慶長17年(1612)の冬にも、家康は鷹狩りを行ってます。このとき家康自身が予定の日程を書いた「道中宿付」があります。
そこには、10月10日に江戸、18日戸田、21日河越、26日忍、11月9日には岩付、10日越谷、18日葛西、20日江戸、22日小杉、25日神奈川、26日藤沢、28日中原、12月5日には小田原、6日三島、8日善徳寺(沼津市)とあり、それぞれに滞在したとみられます。
③慶長18年の鷹狩り
翌年の慶長18年(1613)12月にも、稲毛(武蔵小杉あたり)で鷹狩りを行ったようです(台徳院殿御実紀』巻24)。
同月6日に中原御殿に到着した家康は、家臣の大久保忠隣に反逆の企てがあるという知らせを受け、13日には江戸へ引き返しています。同日の夜半、小杉御殿に入った家康は、出迎えた秀忠と密談を交わし、翌14日に江戸城に戻ったというのです(『武徳編年集成』巻62)。その後大久保忠隣は改易されることになります。
このように小杉御殿は、有事の際には重要な政治的決定が行われるような施設でもあったとみられます。
④元和元年の鷹狩り
翌慶長19年(1614)の大坂冬の陣、同20年(1615)の大坂夏の陣で、家康は豊臣家を滅ぼし、元号を元和と改めて乱世の時代の終了を宣言しました。
夏の陣終結後の9月、家康は駿府から江戸に向かっています。このときも家康は鷹狩りの行程の予定を記した「道中宿付」があります。
それによると、元和元年の9月29日に清水、10月1日に善徳寺(沼津市)、3日三島、4日小田原、6日中原、10日藤沢、11日神奈川、12日江戸、24日蕨、28日~11月3日まで河越、13日岩付、14日越谷、23日葛西、25日江戸、28日小杉、12月2日中原、6日小田原、10日善徳寺、15日駿府とあり、江戸から小杉御殿を経由して中原御殿に至り、東海道筋を駿府へ帰っていったとみられます。
実際に家康は、12月4日から5日にかけて小杉御殿に滞在し、鷹狩りをおこなったとみられます(『台徳院御実紀』巻40)。
これが家康が関東において最後に行った鷹狩りとなりました。翌年4月、家康は75年の生涯に幕を閉じます。
家康は、鷹狩りを行う際に自ら行程を計画し、その予定表である道中宿付を記しました。この宿付は現在13通確認されており、このうち武蔵小杉周辺とみられる「稲毛」や「小杉」は8通の宿付に見えます。下の表は『府中市郷土の森博物館ブックレット19 徳川御殿@府中』掲載の「家康の宿付一覧」をもとに作成しました。
推定年月 | 行程 | 所蔵 |
---|---|---|
慶長14年(1609)10月 | 清水-善徳寺-三嶋-小田原-中原-稲毛-江戸-蕨-河越-忍-岩付-越谷-葛西 | 徳川恒孝氏所蔵文書 |
慶長15年(1610)10月 | 善徳-三嶋-小田原-中原-府中-河越-忍-岩付-岡部-浦和-江戸-稲毛-神奈川-藤沢-中原-小田原-三嶋-善徳寺-府中 | 徳川恒孝氏所蔵文書 |
慶長15年(1610)11月 | 小杉-神奈川-藤沢-小田原-三嶋-善徳寺-府中 | 徳川恒孝氏所蔵文書 |
慶長17年(1612)10月 | 清水-善徳寺-三嶋-小田原-中原-府中-河越-忍-岩付-越谷-葛西-江戸-稲毛 | 名古屋東照宮所蔵文書 |
慶長17年(1612)10月 | 清水-善徳寺-三嶋-小田原-中原-藤沢-神奈川-江戸-戸田-河越-忍-岩付-越谷-葛西-江戸-小杉-神奈川-藤沢-中原-小田原-三嶋-善徳寺 | 金井次郎氏旧蔵文書 |
慶長17年(1612)11月 | 葛西-江戸-稲毛-神奈川-藤沢-中原 | 松平宗紀氏所蔵文書 |
慶長18年(1613)10月 | 葛西-千葉-東金-千葉-葛西-江戸-戸田-河越-忍-戸田-小杉 | 久能山東照宮所蔵文書 |
元和元年(1615)11月 | 江戸-稲毛-神奈川-藤沢-中原-小田原-三嶋-善徳寺-府中 | 桜井徳太郎氏所蔵文書 |
とりあえずのまとめ
脇街道である中原街道に位置する武蔵小杉は、徳川家康の関東入部以来、鷹狩りが行われてきた地でした。慶長12年(1607)に家康が駿府に移り大御所政治を始めると、駿府と江戸との往復のための休泊所として小杉御殿が設置されたと考えられます。その後、毎年のように家康が関東へ鷹狩りを行うたびに、武蔵小杉周辺に立ち寄っていることからも、小杉御殿が機能していることがうかがえます。
次回は、小杉御殿がその後どのような運命たどっていったのかをみてみたいと思います。今日はこの辺で…。
【参考文献】
中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察―南関東の場合―」(『駒沢地理』14号、1978年3月)
村上直「小杉御殿と小杉陣屋に関する一考察」(『川崎市史研究』創刊号、川崎市公文書館、1990年3月)
『川崎市史 通史編2 近世』(川崎市、1994年3月)
『府中市郷土の森博物館ブックレット19 徳川御殿@府中』(府中市郷土の森博物館、2018年1月)