非城識人ノート

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小杉御殿(1) 祝!ブラタモリ出演!!

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小杉御殿! 祝!ブラタモリ「#125 武蔵小杉」出演っ!!
🎊🎉おめでとうございます🎊🎉

川崎市初上陸でした!!約10年前、ブラタモリ第1シリーズの「二子玉川」回……あともう少しで川崎市だった……あの時の屈辱を……見事に晴らしてくれました!!🙌

さて、興奮冷めやらぬ状態ですが…。今回ポイントとなった「小杉御殿」について、もう少し深く掘り下げたいと思います。

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小杉御殿跡に建つ石碑


1、小杉御殿がつくられた時代

①家康の関東入部と武蔵小杉

天正18年(1590)、豊臣秀吉は、関東に大勢力を築いていた小田原北条氏を滅ぼし、天下一統を成し遂げます。当時秀吉に臣従していた徳川家康は、北条氏の領国であった関八州を与えられ、江戸城を居城としました。


慶長2年(1597)には、家康の息子、徳川秀忠が稲毛(武蔵小杉周辺)で鷹狩りを行ったという記録があります。(塩野適斎『桑都日記』続編)

この時、秀忠は疱瘡にかかったらしく、伏見にいた家康から医師白元が派遣され、まもなく快癒したということです。

この頃すでに、小田原から藤沢・神奈川を経て江戸に至る東海道筋のルートが、主要幹線となっており、慶長元年(1598)には、藤沢御殿や中原御殿が造営されていました。このルートから外れている武蔵小杉周辺は、主に鷹狩りのために利用されていたようです。

②大御所家康と小杉御殿

その翌年の慶長3年(1598)、秀吉が死去すると、家康は豊臣政権内で力をのばし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、石田三成に勝利し、三年後に江戸幕府を開きます。
そして家康は、慶長10年(1605)には秀忠に将軍職を譲り、慶長12年(1607)には駿府に移って大御所政治を展開し、江戸と駿府を頻繁に往復するようになります。


江戸―中原(平塚市)間を結ぶ脇街道中原街道は、主に鷹狩りのために利用されるようになり、休泊所の設置が必要となりました。

そこで中原街道における多摩川の渡河地点にあたる小杉村に、仮御殿が築かれます。これが後の小杉御殿です。
貞享5年(1688)に記された「小杉御殿沿革書上」という記録には、この仮御殿は慶長13年(1608)頃に築かれたとされています。


2、武蔵小杉周辺での鷹狩り

①慶長16年の鷹狩り

慶長16年(1611)10月に、駿府にいた家康は鷹狩りのために関東に赴いています(『駿府記』)。

この時家康は、本多正純安藤直次成瀬正成松平正綱・村越茂助などの側近や豪商後藤光次が供奉していたといいます。小田原では本多正信、中原御殿では安藤重信が家康を迎え、藤沢御殿を経て、神奈川御殿では、秀忠自らが出迎え、家康と対面したといわれ、かなり大掛かりな旅だったようです。

15日に家康は、稲毛(武蔵小杉あたり)で鷹狩りを行い、白鷹ではじめて真名鶴を捕獲し、大変満足な様子だったというエピソードが残っています。この時、小杉御殿が使用されたのでしょうか。

②慶長17年の鷹狩り

翌慶長17年(1612)の冬にも、家康は鷹狩りを行ってます。このとき家康自身が予定の日程を書いた「道中宿付」があります。

そこには、10月10日に江戸、18日戸田、21日河越、26日忍、11月9日には岩付、10日越谷、18日葛西、20日江戸、22日小杉、25日神奈川、26日藤沢、28日中原、12月5日には小田原、6日三島、8日善徳寺(沼津市)とあり、それぞれに滞在したとみられます。

このときも、家康は江戸から小杉御殿を経由して神奈川に至り東海道筋を駿府へ向かっていったようです。

③慶長18年の鷹狩り

翌年の慶長18年(1613)12月にも、稲毛(武蔵小杉あたり)で鷹狩りを行ったようです(台徳院殿御実紀』巻24)。

同月6日に中原御殿に到着した家康は、家臣の大久保忠隣に反逆の企てがあるという知らせを受け、13日には江戸へ引き返しています。同日の夜半、小杉御殿に入った家康は、出迎えた秀忠と密談を交わし、翌14日に江戸城に戻ったというのです(『武徳編年集成』巻62)。その後大久保忠隣は改易されることになります。

このように小杉御殿は、有事の際には重要な政治的決定が行われるような施設でもあったとみられます。

④元和元年の鷹狩り

翌慶長19年(1614)の大坂冬の陣、同20年(1615)の大坂夏の陣で、家康は豊臣家を滅ぼし、元号を元和と改めて乱世の時代の終了を宣言しました。

夏の陣終結後の9月、家康は駿府から江戸に向かっています。このときも家康は鷹狩りの行程の予定を記した「道中宿付」があります。

それによると、元和元年の9月29日に清水、10月1日に善徳寺(沼津市)、3日三島、4日小田原、6日中原、10日藤沢、11日神奈川、12日江戸、24日蕨、28日~11月3日まで河越、13日岩付、14日越谷、23日葛西、25日江戸、28日小杉、12月2日中原、6日小田原、10日善徳寺、15日駿府とあり、江戸から小杉御殿を経由して中原御殿に至り東海道筋を駿府へ帰っていったとみられます。

実際に家康は、12月4日から5日にかけて小杉御殿に滞在し、鷹狩りをおこなったとみられます(『台徳院御実紀』巻40)。

これが家康が関東において最後に行った鷹狩りとなりました。翌年4月、家康は75年の生涯に幕を閉じます。




家康は、鷹狩りを行う際に自ら行程を計画し、その予定表である道中宿付を記しました。この宿付は現在13通確認されており、このうち武蔵小杉周辺とみられる「稲毛」や「小杉」は8通の宿付に見えます。下の表は『府中市郷土の森博物館ブックレット19 徳川御殿@府中』掲載の「家康の宿付一覧」をもとに作成しました。

推定年月 行程 所蔵
慶長14年(1609)10月 清水-善徳寺-三嶋-小田原-中原-稲毛-江戸-蕨-河越-忍-岩付-越谷-葛西 徳川恒孝氏所蔵文書
慶長15年(1610)10月 善徳-三嶋-小田原-中原-府中-河越-忍-岩付-岡部-浦和-江戸-稲毛-神奈川-藤沢-中原-小田原-三嶋-善徳寺-府中 徳川恒孝氏所蔵文書
慶長15年(1610)11月 小杉-神奈川-藤沢-小田原-三嶋-善徳寺-府中 徳川恒孝氏所蔵文書
慶長17年(1612)10月 清水-善徳寺-三嶋-小田原-中原-府中-河越-忍-岩付-越谷-葛西-江戸-稲毛 名古屋東照宮所蔵文書
慶長17年(1612)10月 清水-善徳寺-三嶋-小田原-中原-藤沢-神奈川-江戸-戸田-河越-忍-岩付-越谷-葛西-江戸-小杉-神奈川-藤沢-中原-小田原-三嶋-善徳寺 金井次郎氏旧蔵文書
慶長17年(1612)11月 葛西-江戸-稲毛-神奈川-藤沢-中原 松平宗紀氏所蔵文書
慶長18年(1613)10月 葛西-千葉-東金-千葉-葛西-江戸-戸田-河越-忍-戸田-小杉 久能山東照宮所蔵文書
元和元年(1615)11月 江戸-稲毛-神奈川-藤沢-中原-小田原-三嶋-善徳寺-府中 桜井徳太郎氏所蔵文書
とりあえずのまとめ

脇街道である中原街道に位置する武蔵小杉は、徳川家康の関東入部以来、鷹狩りが行われてきた地でした。慶長12年(1607)に家康が駿府に移り大御所政治を始めると、駿府と江戸との往復のための休泊所として小杉御殿が設置されたと考えられます。その後、毎年のように家康が関東へ鷹狩りを行うたびに、武蔵小杉周辺に立ち寄っていることからも、小杉御殿が機能していることがうかがえます。


次回は、小杉御殿がその後どのような運命たどっていったのかをみてみたいと思います。今日はこの辺で…。


【参考文献】
中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察―南関東の場合―」(『駒沢地理』14号、1978年3月)
村上直「小杉御殿と小杉陣屋に関する一考察」(『川崎市史研究』創刊号、川崎市公文書館、1990年3月)
川崎市史 通史編2 近世』(川崎市、1994年3月)
府中市郷土の森博物館ブックレット19 徳川御殿@府中』(府中市郷土の森博物館、2018年1月)