非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

城に木が生えていること(1)

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公園として整備された皆川城(栃木県栃木市、2018年12月撮影)


先日、以下の記事を見つけた。
shirobito.jp

当情報サイトは初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を解説するものらしい。冒頭の記事では「山城には木が生えていなかったって本当?」と題して、以下のように解説されている。

軍事施設としてバリバリ使用されていた当時の山城は、ほとんど木が生えていなかったといわれています。さて、これは一体なぜなのでしょうか?

自然の山を利用した山城。せっかく高い所に陣取っているのですから、敵がどこから攻めてきてもすぐに把握できるように、360度の視界を確保した方が得策です。そのためには、視界を遮る木々がない方がいいですよね。また木々が生い茂っていると、侵入した敵兵が隠れることもできますし、斜面を登るための足場にもなってしまいます。木がないことで敵の状況を知り、敵を寄せ付けないこともできたのです。また、城の存在やその威容を敵に誇示する効果もあったでしょう。


私もかつてはそのように理解していた。しかし、城に関する史料や論文・文献に触れるうちに、「城に木が生えていなかった」とは必ずしもいえないのでは?」と思うようになった。
このエントリでは、城に木が生えていることに、どんな意味があったのか考えていきたい。

【目次】

目隠しに用いられた木

前掲記事からの引用文には続きがある。

とはいえ、「やたらと木を伐るな」と書かれた史料もあり、まるっきりの禿げ山にしていたわけではないことがわかってきています。敵に見せたくない重要な部分の目隠しや、普請(土木工事)の効率化のため、役に立つ木・伐る必要がない木は残すことにしていたようです。また、木をすべて伐ってしまうと山の保水力が落ちてしまい、ライフラインである井戸の水が出なくなったり、大雨で山が崩れてしまったりという心配もあるので、山の特徴にあわせてそれぞれ調整していたのでしょう。

引用にある通り、城内の樹木は敵からの目隠しの役割や、水源を確保する役割を果たしていた。

戦国大名朝倉家に伝えられたとされる故実書『築城記』には以下のような条文が見える(『群書類従 第23輯 武家部』続群書類従完成会、1960)。

一、城の外に木を植まじき也、土ゐの内ノ方に木を植て可然也、

城の外には木を植えてはいけない、城の土塁の内側に木を植えるのがよいとする。これも城内を敵の視線にさらされないようにするためのものと考えられる。

また、天正元年5月に、上杉謙信が河隅三郎左衛門尉・庄田隼人佑に命じた書状には、次のような文言が見られる(上杉謙信書状『上越市史』別編上杉氏文書集1158号「岡田紅陽氏所蔵文書」 https://www.touken-world.jp/search-art/art0005650/ )。

又ぢんしゆに、さかい・みやざきの竹木きらせましく候、きり候へハ、むらようかいなを〱てあさに見なすものニ候、

謙信は、「ぢんしゆ」(陣衆=上杉方の軍勢)に、「さかい」(=越中国 境)と「みやざき」(=同国宮崎)での竹木伐採を禁止している。竹木を切ると「むらようかい」(=村要害)が手浅く見えてしまうとして、伐採禁止の理由を述べている。村要害とは、境や宮崎の住人たちが領土を防衛するために籠る砦のようなものと考えられる。砦の内部が見通せてしまうと、敵から攻め落としやすく見えてしまうため、木々で目隠しを施す必要があったとみられる。

このように、城の樹木は敵から城内を見通されないための目隠しとしての役割があったと考えられる。


水源を維持する木

先にもあげた『築城記』は、戦国時代の築城テキストとして知られる。その第1条に、次のような記述がある(『群書類従 第23輯 武家部』)。

山城ノ事可然相見也、然共水無之ハ無詮候間、努々水ノ手遠はこしらへべからず、又水ノ有山をも尾ツヾキをホリ切、水ノ近所ノ大木ヲ切て、其後水の留事在之、能々水ヲ試て山を可拵也、人足等無体にして聊爾ニ取カカリ不可然、返々出水之事肝要候条分別有ベシ、末代人数の命を延事は山城ノ徳と申也、城守も天下ノ覚ヲ蒙也、日夜辛労ヲ積テ可拵事肝心也、

山城はそれ自体が立派に見える。しかし、水が無くてはしかたがないから、決して水の手を遠くに造ってはならない。また水が出る山の尾根を掘りきったり、水の近くの大木を切ったりすると、その後に水が止まってしまうことがある。念を入れて水の確保を考えて山城を築かなくてはならない。人足たちがむやみにいい加減に取り掛かってはならない。くれぐれも水の確保の事は肝要であるから、よく考えて判断しなさい。後世まで軍勢の命を延ばす事は山城の徳というものである。城主も天下の声望を得るものだ。日夜身を粉にして(城を)造ることが肝心である。
上のように『築城記』第1条では水の確保の重要性が繰り返し述べられている。傍線部にもあるように、水の近くの大木を切ると、水が止まってしまうと注意している。

城における木と水の手の関係は、鷲頭山砦(静岡県沼津市)について述べられた次の史料にも見られる(北条家朱印状写『戦国遺文後北条氏編』2296号「判物証文写北条」)。

鷲津山水曲輪より上ニおゐて、不可木切候、各存其旨、堅可申付者也、仍如件、
    辛巳
    十二月十二日(虎朱印) 垪和伯耆守 奉之
          礒彦左衛門尉殿
          番衆中

戦国大名北条氏が鷲頭山砦を守る軍勢に対して、水曲輪よりも上の場所で木を切るなと命じている。
竹井英文氏は、上の史料について、「水曲輪は井戸がある曲輪と考えられるので、伐木による水脈の乱れを警戒してのことと考えられる」としている(竹井英文『戦国の城の一生』吉川弘文館、2018)

確かに城の樹木は、山の水脈を保ち、水を確保する役割を果たしており、むやみに伐採してはならなかったのである。


障害物としての木

城に生える樹木は、防御施設としての役割を果たしていたとも考えられている。
天正6年5月、北条氏政が、荒井釣月斎という人物に宛てた書状の中に、次のような文言が見える(北条氏政書状写『戦国遺文後北条氏編』1991号)。

抑三日以来者、毎日結城・山川押詰、竹木迄伐払候、

北条方はこの時、下総国結城城・同国山川城を攻めていた。両城に接近した軍勢は、竹木を切り払っていたという。戦国期の城における森林の役割を検討した佐脇敬一郎氏は、上の史料について「山川城に接近した北条氏は、障害となる森林や立ち木を切り払ったのではないのだろうか。」と推測している(「戦国期の城と森林」『戦国史研究』55号、2008)。

このように、城を攻める敵にとって、樹木が障害物となった可能性も十分に考えられる。

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樹木に覆われた腰越城(埼玉県小川町、2017年4月撮影)

それだけではない、城の樹木の役割

以上のように、城に生える樹木には、
①目隠しとしての役割
②水源を維持する役割
③障害物としての役割
があったと考えられるが、これらの役割については、冒頭の記事でも既に述べられている。

しかし、城に生える樹木には、もう一つの重要な役割があったと考えられている。

その役割とは……次回のエントリで述べていきたい。


↓今回のエントリでお世話になった参考文献↓
竹井英文『戦国の城の一生―つくる・壊す・蘇る―』(吉川弘文館、2018)
www.yoshikawa-k.co.jp


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