非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

城下町飯田と飯田藩@飯田市美術博物館

先日、長野県の飯田市美術博物館にて行われている特別展「城下町飯田と飯田藩」を拝観しました。

本展ポスター
飯田市美術博物館

 本展は、堀親昌が飯田藩主として下野烏山から入封して350年、飯田城下町の基礎を築いた京極高知の没後400年の節目にあたる今年(2022年)、城下町飯田の変遷を振り返るという趣旨で開催されました。本展の構成は以下の通り。

第1章「争」う―群雄割拠の時代
第2章「治」める―脇坂家の治世、堀家支配の二百年
第3章「築」く―殿さまたちのまちづくり
第4章「嗜」む―教養と社交の果実
第5章「暮」らす―飯田城下の暮らしぶり、城下町の歳時記
第6章「伝」わる―飯田藩堀家の至宝
第7章「新」たにする―それぞれの幕末・維新、飯田城の廃城と跡地利用、飯田大火からの復興

 章立ても見てもわかるように、本展は規模が大きく気合が入った展示でした。一番の見どころは、やはり第3章にて展示されていた信濃国飯田城絵図でしょう。長野県宝にも指定されている本図は、約250×300cmの大きなもので、飯田城内から城下町まで詳細に描かれています。以前から個人的に気になっている、飯田城の山伏丸の様子も確認できました。また飯田城各曲輪における家臣の役割を記した文書や、様々な飯田城・城下絵図が展示されており、とても面白かったです。
 この飯田城は小笠原一族の坂西氏が築いたとされる城です。もともと坂西氏は「飯坂」の地に居館を構えており、飯田城の地にはもともと修験者の行場がありました。坂西氏はその場所に居館を移して城とし、行場は飯坂の地(現在の愛宕神社)に移したと言われています。つまり、山伏の修行場と居城が入れ替わったのが、飯田城のはじまりらしいですが、なぜこのような築城になったのか、謎めいており興味深いです。本展では、飯田城が築かれたころの同時代史料も出展されており、伊那地域における武田氏や織田氏、小笠原氏らの変遷が読み取れましたが、飯田城の存在に関する確かな記述がみられず、謎が深まりました。
 また飯田城下町の形成に関わる展示や考察もなされており、本格的な城下町整備は元和3年に入部した脇坂氏の時代であることが確実とのこと。ではそれ以前の飯田城や城下町はどうなっていたのだろう。伊那地域の政治的拠点だったのだろうか。飯田城も城下町飯田も形成の頃を物語る同時代史料はほとんど無く、後世に書かれた由来記などに依存せざるをえないという。今回の展示は、飯田のまちの歴史を考える上で重要な機会であり、また研究課題も浮かび上がってくるようでした。
 本展では、飯田城や飯田藩の歴史だけではなく、文化や民俗行事など、様々な視点から城下町飯田を叙述し直すものとなっていたのも、大きな特色です。飯田お練り祭りや、「千鳥」という香炉の伝来など、興味深いトピックが多かったです。展示の要所要所では、城下町飯田の見どころを紹介するパネルも掲示しており、美術博物館だけでなく、周りの城下町にも足を運びたくなる工夫が見られました。また古文書の展示では、数行程度で内容をゆる~く訳したキャプションも置かれており、くずし字が苦手な人でも興味が持てる工夫がありました。

本展図録

 図録も購入。素晴らしい展示図録です。コラムも充実。美術博物館の学芸員・専門研究員だけでなく、教育委員会文化財保護活用課の方のコラムや、飯田市歴史研究所所長吉田伸之氏の論考も載せており、飯田市の教育部門の総力が伝わってきます。

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