非城識人ノート

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小杉御殿(2) その後の御殿

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こんにちはー。前回からブラタモリにも出演した小杉御殿について、掘り下げてきました。前回は、主に小杉御殿の成立段階といった感じでした。

今回は、徳川家康死後の小杉御殿を見ていきます。

 

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小杉御殿跡に建つ案内板

 

 

3、その後の小杉御殿

 ①新規造営と解体

 『大猷院殿御実記』(巻40)に、寛永16年(1639)に葛西(青戸)・府中・船橋・稲毛(小杉)・中原・越谷の各御殿に対して、修理のための普請の奉行が任命されたという記事があります。「稲毛」と呼ばれた小杉御殿には、小姓組の安藤市郎兵衛忠次と、大番の小俣平右衛門政貞の両人が奉行に任ぜられ、修理に伴う新規造営が行われたとあります。

 

 貞享5年(1688)に記された「小杉御殿沿革書上」という記録にも、安藤と小俣の両人が、寛永17年(1640)に小杉御殿を新規造営したとあり、寛永16~17年頃に御殿の修理が行われたことは確かなようです。

 

 「小杉御殿沿革書上」では続けて、その15年後の明暦元年(1655)に、御殿の一部が解体され、品川の東海寺へ遣わされたとあります。この時の担当の奉行は夏目彦助という人物でした。

 

 また、享和4年(1804)2月の小杉村の「村方明細帳」などの文書によると、万治3年(1660)に御殿の取り払い(廃止)がなされたとあり、寛文元年(1661)には御殿敷地内の竹木が取り除かれたようです。

 

 御殿の御主殿の間は、寛文12年(1672)に、上野の弘文院に遺されたとされます(「小杉御殿沿革書上」)。この時は担当の奉行はいなかったようです。

 

 御殿の土地は、延宝2年(1674)より作場(田畑)となり、延宝7年(1679)には高入(村高に編入されること)となりました。

 

 このように、小杉御殿は万治3年頃にはその機能が停止し、寛文12年頃には建物も完全になくなり、年貢負担地として扱われるようになったと考えられます。

 

 

 ②御殿番、井出氏

 享和4年(1804)2月の小杉村の「村方明細帳」によると、小杉御殿が新規造営された寛永17年に、御殿の管理人=「御殿番」として、先手頭新見新右衛門組同心であった井出七郎左衛門が任ぜられたとあります。

 

 この「御殿番」は、寛永12年(1635)の「御殿番勘定帳抄」によると、葛西・越谷・小杉御殿に5人、神奈川御殿に2人置かれていたといわれています。

 

 小杉御殿の「御殿番」に任じられた井出七郎左衛門は、万治3年に御殿が取り払われるまで、約20年間にわたって御殿番を勤めたようです(「村方明細帳」)。

 また、井出六大夫という人物も「御殿番」に任じられており、切米20俵2人扶持が給されていたが、延宝6年(1678)に役替えされ、河船役を勤めることになったとみられます(「小杉御殿沿革書上」)。

 井出七郎左衛門と六大夫との関係性はわかりませんが、代々井出氏によって御殿番が勤められていたと考えられます。

 

 

 ③まとめ

 徳川家康の死後、駿府の家康と江戸の秀忠による政治が解消され、将軍や大御所による往復や鷹狩りのための休泊の機会が減少すると、小杉御殿は、その存在意義を失ってきたと考えられます。幕府は、寛永16~17年頃の御殿修造や御殿番の任命により、各地の御殿の維持管理を図りますが、将軍の鷹狩りを目的とした民情視察の必要性の低下や、財政の窮迫により、小杉御殿は廃止に至ったといわれています。

 

次回は、小杉御殿の跡地は現在どうなっているのかをみていきたいと思います。 

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【参考文献】
中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察―南関東の場合―」(『駒沢地理』14号、1978年3月)
村上直「小杉御殿と小杉陣屋に関する一考察」(『川崎市史研究』創刊号、川崎市公文書館、1990年3月)

角川日本地名大辞典 別巻Ⅰ 日本地名資料集成』(角川書店、1990年11月)
川崎市史 通史編2 近世』(川崎市、1994年3月)