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馬部隆弘著『椿井文書 日本最大級の偽文書』(中公新書、2020年)

馬部隆弘著『椿井文書 日本最大級の偽文書』(中公新書、2020年)、再読了。
江戸時代に椿井政隆によって創られた数百点もの偽文書である椿井文書。椿井政隆はなぜ偽文書を作成したのか、偽文書は地域史研究にどのような影響を及ぼしているのか。 偽文書から近世社会の一面を照らし出す一冊。

馬部隆弘著『椿井文書 日本最大級の偽文書』(中公新書、2020年)

本書では畿内一円で活動した椿井政隆という人物を取り上げ、江戸時代に偽文書が作成された社会背景、作成者本人の動向、そして偽文書を受容した影響を論じている。
偽文書と聞くと、民放の鑑定番組にて安価な鑑定額を提示されて笑いものにされるイメージがあるかもしれない。歴史的に著名な差出人本人が書いた古文書でないと知るや、その偽文書は紙切れ同然の価値に感じてしまうかもしれない。歴史研究の立場でも、偽文書は「検討の余地あり」という注意書きが付され、確実な一次史料としてみられないか、あるいは無視されることも珍しくない。しかし、その偽文書も作成した人物がいる。こうした偽文書は作成者本人の趣味が高じて作られただけなく、村と村が対立しているところに出没し、論争を有利に導くような偽文書を作成することで村の要求に応えるなど、偽文書が受容される理由があった。本書では椿井政隆の動向を追いながら、当時の人々だけでなく現代の歴史家も政隆に騙されてしまうメカニズムを叙述する。
本書で印象的なのは、椿井文書が作成される際に参考にされた『五畿内志』という地誌の信憑性について批判を行った三浦蘭阪という人物である。彼は『五畿内志』を擁護し名所づくりを進める動きに対して鋭い批判をしていたが、彼の批判が地域のなかで受け入れられることは無かった。次の一文にその様子が象徴的に記される。

このように『五畿内志』をめぐる言説を整理すると、真っ当な批判に対して社会はあまり聞く耳を持たないという構図が浮かび上がってくる。また蘭阪がそうであったように、『五畿内志』を批判しなければならないと思う一方で、その説が受け入れられないことも予測された場合、混乱を避けて誤りを黙認する道を選ぶこともある。歴史家も一社会人である以上は、当然ながら起こりうることである。とりわけ自らが身を置く社会と研究対象が一致する地域史の場合、そのような現象は起こりやすい。正しい分析が積み重ねられたところで、それに比例して史実に近づくとは限らないのである。(p.154)

歴史が町おこしに活用されるという潮流の中で、その史実の信憑性は二の次になってしまう。江戸時代も現代も同じような現象が起こっていることを本書は物語る。
歴史学での考え方と地域住民が抱く歴史のイメージには懸隔がある。歴史学者が信憑性の低い伝承の類いを“黙殺”して歴史を叙述するのに対し、地域住民にとっては伝承の類いの方が身近な“歴史”だからである。椿井文書を読み解くと、地域史を研究対象とする際に意識しなければならないことが明らかになる。
本書の意義は、歴史学から“黙殺”されていた伝承や偽文書についても歴史的価値を見出そうとしている点である。

椿井文書は、人々がかくあってほしいという歴史に沿うように創られていたため受け入れられた。その意味では、近世の人々の精神世界を描く素材としての可能性も秘めている。椿井文書が近代社会で活用された要因は、椿井政隆の思想が極めて受け入れやすいものであった点にも求められる。そのような思想を復原的に考察していく作業も、椿井文書が膨大に残されているだけに充実したものとなるのではなかろうか。

歴史学の立場から、史料批判・事実確認を行った上で、偽文書とされるものについては、その作成背景を明らかにすることも、歴史を明らかにする重要な作業であることを改めて認識されられた。
本書は出版直後にも通読したが、今年の春からブログ主は、地域の文化財に関わる仕事に携わることになったため、今回再読した。今後も折を見て再読していきたい一冊である。



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