非城識人ノート

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難波田氏とその時代@富士見市立難波田城資料館

先日、埼玉県の富士見市立難波田城資料館にて行われていた企画展「難波田氏とその時代」を拝観しました。

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同展の看板
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波田城資料館


 本展は、800年前の承久の乱(1221年)がきっかけで成立したとされる埼玉県富士見市を代表する中世武士・難波田氏について、その一族の動向を鎌倉時代から近現代まで追跡したものでした。
 難波田氏の祖は系図類によると、承久の乱幕府軍として戦死した金子小太郎高範とされますが、具体的な根拠は不明だそうです。難波田氏の名前が登場するのは南北朝時代の頃で、観応の擾乱における入間川での合戦にて現れる難波田九郎三郎が初見であるそうです。その後も難波田氏の動向はかすかにうかがえますが、その後、難波田氏が本格的に確認できるは戦国時代後期のことで、扇谷上杉氏の家臣として著名な難波田善銀などが知られます。その後、難波田氏の一族は北条氏に属し、松山城などを守っていた者もいたとされます。江戸時代になると難波田氏は幕府の旗本として仕えるようになり、三家に分かれます。また本展では、その他の大名家に仕えた難波田家についても解説を行い、それぞれの末裔が近現代の残した業績を紹介しています。
 本展では、記録の少ない中世の難波田氏の姿をできるだけ明らかにしようとしており、古文書だけでなく、難波田城周辺の遺物や板碑などから、当時の様相の復元を試みていました。また、戦国時代以降の難波田氏一族の動向を丹念に追っており、それぞれの難波田家の系統の動向を明らかにしていました。こじんまりとした展示スペースでしたが、そこでは難波田氏が地元のヒーローとして慕われていると同時に、難波田一族にとっても名字の地として当地が意識されてきたことが実感できました。
 同展では図録も刊行されており、文字史料には釈文を付すなど、丁寧なつくりで解説書としても利用できる一冊となっていました。

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同展の図録

 難波田城資料館には初めて訪問しました。同館は難波田城公園の中に位置しており、資料館では城跡を中心とした中世の当地域の解説のほか、近世文書や近現代の展示資料から、当地の村の生活の様子などを紹介していました。また、野外には古民家ゾーンもあり、市内の指定文化財の古民家を移築して、農具・家具を展示するなど農村の景観を再現していました。体験施設としても利用されているようです。

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旧大澤家住宅

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