非城識人ノート

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長沼氏から皆川氏へ 皆川文書でたどるその足跡@栃木県立博物館

先日、栃木県立博物館にて行われていたテーマ展「承久の乱800周年記念 長沼氏から皆川氏へ 皆川文書でたどるその足跡」を拝観しました。

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同展ポスター
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栃木県立博物館

 本展は、承久の乱(1221年)から800周年を記念し、承久の乱にて幕府軍として功績を挙げた下野国長沼荘を本拠とした長沼氏について、新たに皆川氏を名乗るまでの一族の歴史を「皆川文書」(個人蔵、栃木県立博物館寄託)から読み解くテーマ展となっていました。本展で展示された資料の中で最も見ごたえがあったものは、貞応2年(1223)の淡路国大田文でした。大田文とは、鎌倉時代を中心に各国ごとに作成され、一国内の国衙領(公領)と荘園の田畠面積と領有関係を記した文書であり、地頭御家人への御家人役の賦課基準に用いられたものです。皆川文書に伝来する淡路国大田文は、承久の乱での功績が認められて同国の守護職を与えられた長沼宗政が作成したものであり、原本としては現存最古で大田文のなかで唯一、国の重要文化財に指定されています。同展では、その大田文の全貌が展示されており、興味深く拝見いたしました。
 また、同展で皆川文書から展示されていたもので多かったのが、南北朝期から室町期にかけてのもので、特に室町時代において、長沼荘の支配をめぐって一族が分裂し、さらに後継者のあいつぐ早世により、家督の継承が混乱している様相が、当時の鎌倉公方や上杉氏らの文書から読み取れるのが印象的でした。
 その後、陸奥国南山を拠点として長沼一族の次郎の家系から、皆川荘に移った一族が皆川氏を名乗って活動が見られるようになりました。南山は、南北朝動乱期から長沼氏との関わりがある場所で、南奥と下野国の国境を越えたつながりが垣間見える点も興味深く感じました。また長沼氏の文書が皆川氏に伝来した過程が、この次郎の家系からきていることがわかりました。その後も北条家や豊臣家と徳川家と渡り合う皆川氏の姿が、皆川文書からうかがえた点は満足度が高かったです。
 本展では、「正文」「下文」「下知状」など展示で使用される古文書学用語を解説した補足説明資料や、展示内容の趣旨を端的にまとめたパンフレットが配布されており、複雑な中世史を扱う展示をわかりやすく解説する工夫がされていました。また、「皆川文書」の調査・研究成果をまとめた報告書も販売され、それぞれの文書に釈文・読み下し・解説を付し、全体の詳細な解説もなされていました。本展の図録としても利用できる同書は、とても充実した内容となっていました。

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同展の調査研究報告書


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