非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

仁木宏著『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社日本史リブレット、2004年)

仁木宏著『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社日本史リブレット、2004年)読了。
山城国西岡地域と同国大山崎を舞台に、村と町における土豪や連帯組織が、室町後期・戦国時代にかけてどのように社会的に存在したのか、残された文書をもとに追う1冊。

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仁木宏著『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社日本史リブレット)

概要と感想

本書では、村の土豪・国衆らの連帯組織である「国」をが出現した西岡地域と、「宿老」や「若衆」による「惣中」と呼ばれる組織が結成され「所」と呼ばれる共同体であった大山崎の町が、外部権力側とどのような関係を築いたのか、また支配権力側はこれらをどのように認識したのか叙述している。
15世紀後半に西岡では「御被官人中」という自律的な集団を結成し、西岡・中脈という地域を単位としたが、16世紀にかけて御被官人中は国衆へ変化し、彼らを構成員とする「国」が確立する。彼らは個別に被官関係を結びながらも、地域社会における公権を担う「国」への結集を維持していた。
大山崎では、15世紀前半から天神八王子社の宮座を紐帯とした「惣中」と呼ばれる組織があらわれ、「宿老」「若衆」という重層的な組織をつくり、町の地域領域を確定するため牓示を打つなどした。大山崎は西岡よりも集団原理の発達が早熟していたが、どちらも一揆的な集団原理をもち、領域内の諸問題を自律的に解決する能力を獲得し、構成員からも外部権力も「公」的な存在と認められるようになった点で共通していた。
しかし西岡地域は、三好政権下では「国」の裁許機能を尊重しつつもより上位の立場から裁定をくだすようになり、織田政権下では国衆が相論に姿を見せなくなり織田家細川藤孝の奉行衆が審理にあたるようになる。大山崎では、三好・織田政権が禁制や徳政免除を行って特別な保護を行ったが、特に織田政権下では直轄都市化が進められ、町の共同体の上に位置する「公」と認めさせるようになる。
このように、近世権力は「国」や「所」の枠組みの存在を認めつつも、「国」には直臣を国衆の中に送り込んで権力組織の中に地域社会のメンバーを組む込み、町に対しては直轄都市とすることで上位の「公」として認めさせることで、それぞれを支配領域に変えていっていった。戦国期以降の武家権力は、「下からの公」により生まれた「国」や「所」といった枠組みを承認しつつも、これらに「上からの公」を認めさせることで、全国支配を成した。

気になったところ

本書を読んで気になった点は、地域社会における城の役割である。西岡地域の勝龍寺城は勝龍寺の寺内の一部を利用して築かれ、応仁・文明の乱頃には境内をそのまま城郭化するようになっていた。勝龍寺は交通上の要衝に位置していることから都市的な発展を遂げいたため、城は臨時的な守護所機能を果たす場となった。三好政権下では西岡の土豪たちと三好氏の近臣らが共同で勝龍寺城の要害普請を担っている。足利義輝暗殺後には石成友通が勝龍寺城に入城したが、これは西岡の「国」の結集拠点が同城であったことをあらわしており、勝龍寺城に入城することで西岡の「正当な」領主として認められたという。また1573年、対立しあう足利義昭織田信長のいずれに味方するか迷う細川藤孝に対し、革島秀存は「当城に対して無二の御覚悟」を示している。秀存は藤孝個人への忠節ではなく「当城」=勝龍寺城に対する「覚悟」から藤孝への協力を表明していることから、藤孝の支配にとって西岡の領域と勝龍寺城がセットで重要であったとしている。
このように、城と地域社会の結びつきが窺えるのも本書の魅力である。勝龍寺城は村の土豪の「私的」な城ではなく、守護方や三好政権・織田政権が利用した「公的」な側面をもつ城であり、西岡という領域とセットのものとして、外部権力からも地域社会からも認められていたことがわかる。地域社会において城がどのような役割を果たしていたのか、私的(?)な城と公的な城のそれぞれの運用の仕方・棲み分けなど、考えてみたいことがたくさん浮かんだ。


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