非城識人ノート

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築城の故実

 有職故実とは、公家や武家儀礼・官職・制度・服飾・法令・軍陣などの先例・典故をいう。
 武家故実には、出陣祝や首実検、陣幕の打ち方や御旗の前の通り方、鬨の声などの様々な故実・習俗が故実書に記されている。特に出陣に際しては、方位に関しては北、日時に関しては往亡日を嫌うとか、軍陣においては、落馬や弓折れ、鼠・犬の走り方にまで吉凶を定めるなど、様々なタブーや縁起かつぎが行われた。これらの作法や習俗は、衆心を納得させたり、士気を高めたりするために行われていたことが、既に二木謙一氏や小和田哲男氏によって指摘されている*1
 以上のように、戦陣においては様々な作法や習俗がみられるが、武士が居住し、時には戦場ともなる城館に関しても、同様の作法やタブーなどが存在したのだろうか。このエントリでは築城に関する故実を中心に、城館における作法や習俗を考える。
 築城に関する故実として、まず挙げられるのが、地鎮の儀式である。上野国長楽寺の僧松陰が記した『松陰私語』のなかに、「金山城事始」という一節が存在する。その中で松陰が、上野国金山城の築城に際して、「鍬初」の後に、「上古之城郭保護記」をもとに「地鎮之儀式」を執り行っている。この「上古之城郭保護記」の詳細は不明であるが、地鎮の際に、先例や故実などが参照されたと考えられる。また、『甲陽日記』では、武田氏の城での地鎮の儀礼を「鍬立」と呼んでいる。「鍬立」の記事には時刻・方位などが記されており、陰陽道に関わるものとみられる。島津氏では「地取之書」(「島津家文書」)というものがあり、築城などの際には、弓を用い征矢を立て地取し、「鍬入」を行い、神歌を唱え、御幣を串に挟み、摩利支天の印を結んで真言を唱え、洗米と酒を地神・荒神に供えたという。豊臣政権も土木工事の地鎮において陰陽師を活用していたことを、三鬼清一郎氏が明らかにしているように*2、地鎮の儀礼は、陰陽道の影響を強く受けているものと考えられる。
 こうした陰陽道の考え方が、城の立地にも応用されている場合もある。島津氏に仕え、『山田聖栄自記』や弓矢等の故実書などを書き残した山田聖栄は、「城取地形図伝書」(「山田文書」)という城の占地などに関する故実書も記している。この中では、女が伏せたような地形に城を取るのは不吉であり、東西南北に堀を切ることで、「男ノ臥タル様ニナスへシ」としている。また城中に用いる水は、北の方から出るものを使ってはいけないとしている。これらからは、陰が女や北であり、陽が男や南であるという陰陽思想の影響が見られ、軍陣における作法や習俗と通ずる部分があるようにも考えられる。

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『築城記』にみえる門の図(『群書類従』第23輯より)

 一方で、こうした陰陽道の考え方が見られない築城の故実も存在する。越前朝倉家に伝えられた一巻の伝書である『築城記』は、築城と城郭建築の実際について極めて具体的に述べたものとして知られる。例えば、第一条では、飲料水の確保という視点から山城の立地条件を述べており、水源のある山の尾根を掘り切ったり、水源近くの大木を切り取ったりして、水が止まる危険などを指摘している。他にも塀や木戸、櫓の寸法や構え方などが細かく記されており、前述の「城取地形図伝書」とは雰囲気を異にする。このことから、各大名家の築城に関して保持していた知識や技術は、微妙に異なっていたものと推測できる。
 だが、この『築城記』は、朝倉氏が家臣の窪田三郎兵衛尉に相伝し、そこから若狭守護武田氏の家臣であった親類の窪田長門守に相伝し、さらに室町幕府政所伊勢貞孝の臣である河村誓真が、永禄8年に書写したものである。『築城記』における塀や狭間の情報に関しては、多賀高忠の記した『就弓馬儀大概聞書』や玉縄北条家に伝わった『出陣次第』にも、類似したものが見られる。これらから竹井英文氏は、築城技術が書物によって大名領国を越えて広まり、各大名家がそれらを入手・保持し、築城に関する学習・教育を行っていた可能性を指摘している*3
 以上のように、築城に関する故実においても、地鎮の作法や築城におけるタブーなどが存在した。それぞれの故実の内容には、共通点や相違点が認められることから、各大名家は築城に関する作法や習俗を入手しつつ、それぞれの築城技術を模索したと考えられる。


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*1:『中世武家の作法』『占星と呪術の戦国史

*2:「普請と作事―大地と人間―」『日本の社会史8 生活感覚と社会』

*3:『戦国の城の一生』