非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

日本史史料研究会監修・平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』(洋泉社歴史新書y、2016年)

日本史史料研究会監修・平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』(洋泉社歴史新書y、2016年)読了。

家康研究における論点を端的にまとめ、最新の研究状況をわかりやすく叙述した1冊。

 

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日本史史料研究会監修・平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』(洋泉社歴史新書y、2016年)



 

概要と感想

本書の目次は以下の通り。

 

はじめに―家康の伝記と松平・家康中心史観をめぐって(平野明夫)

【第1部】戦国大名への道

松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ(村岡幹生)

家康は、いつ、今川氏から完全に自立したのか(平野明夫)

三河一向一揆」は、家康にとって何であったか(安藤弥)

家康の家臣団は、どのように形成されたのか(堀江登志実)

【第2部】戦国大名徳川家康

義元の死後、家康と今川家との関係はどうなったのか(遠藤英弥)

信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康(平野明夫)

徳川氏と北条氏の関係は、関東にいかなる影響を与えたのか(宮川展夫)

【第3部】豊臣大名徳川家康

豊臣政権の中枢で、積極的な役割を果たした家康(播磨良紀)

家康の検地は、秀吉に比べ時代遅れだったのか(谷口央)

家康の「関東転封」は何をもたらしたのか(中野達哉)

「関東入国」直後、「奥羽仕置」で大活躍した家康(佐藤貴博)

【第4部】天下人徳川家康

大御所徳川家康はエンペラーかキングか(鍋本由徳)

家康最晩年の「政権移譲構想」と隠居問題とは(大嶌聖子)

東照大権現への神格化は、家康の意志だったのか(生駒哲郎)

あとがき

 

本書は、家康に関する最近の研究状況を振り返り、江戸時代以来形成された松平・徳川中心史観を再検討するものである。そのため、本書の「はじめに」には、江戸時代以来の徳川氏研究を整理しており、一次史料をもとに家康の研究がされるようになったのはごく近年のことであることが窺える。

また第1部では、家康だけでなく、松平氏そのものの研究状況の進展と、松平氏の実態について明らかに明らかにされている。

第2部では、今川氏・武田氏・上杉氏・北条氏・織田氏などの有名な戦国大名の中で、家康がどのように彼らと渡り合ってきたのか。織田氏に従属する家臣としてではなく、独立した1つの戦国大名としての家康の行動を明らかにしている。

第3部では、豊臣政権に従属したのちに、政権内で果たした家康の役割や、領国支配の様相を明らかにしている。特に、家康の検地について分析した谷口氏の論考は、家康の五カ国検地についてわかりやすく叙述しており、大変参考になった。

第4部では、関ヶ原大坂の陣後の天下人家康の実像を探る。特に大嶌氏の論考は、家康が泉頭に移転する構想について扱っており、死去直前に家康が考えていたことを推測している。

千々和到著『板碑と石塔の祈り』(山川出版社日本史リブレット、2007年)

千々和到著『板碑と石塔の祈り』(山川出版社日本史リブレット、2007年)読了。

日本の中世に各地につくられた五輪塔・宝篋印塔や板碑などの石塔が、どのような意味を持ち、地域において如何にして存在し続けたのかを叙述する1冊。

 

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千々和到著『板碑と石塔の祈り』(山川出版社日本史リブレット、2007年)



概要と感想

板碑や五輪塔・宝篋印塔などの石塔は、仏塔(卒塔婆)として造られたものが多い。また中世の要人の墓に用いられる石塔は、梵字や紀年銘・造立趣旨等が記されている。この点について、故人の生涯や事跡を顕彰するような文章が記された中国の墓碑や墓誌と大きく異なるポイントだと思った。

こうした日本中世において石塔が広まった背景には、平安時代後期に末法思想の広がりによって貴族たちの小塔供養が盛んに行われたことが関係しているとされる。また石塔が墓に用いられる際も、石塔を造立する功徳と、その地下に骨を埋められることによる結縁によって、極楽往生をしたいとの願いが込められているものと考えられる。

こうした石塔、特に板碑に関しては、現代では石塔は、領主の変遷や年号の使用状況、中世城館の年代比定等その土地の歴史を明らかにするときに重用されている。しかし江戸時代には、地誌の編纂の際に重視され、地域の歴史や由緒を生み出す際の材料として保存されてきた。時代の変遷により、地域のなかで板碑のもつ意味が変化している点も興味深い。

石塔・板碑に触れる際には、そこに残されていることの意味・意義を考えてみたい。

日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(洋泉社歴史新書y、2015年)

日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(洋泉社歴史新書y、2015年)読了。
秀吉の政策として著名な「太閤検地」「朝鮮出兵」「キリスト教禁止」などや、あまり知られていない秀吉と武家官位や朝廷の問題、また秀吉の出自にかかわる研究など、多種多様なテーマを取り上げ、それぞれを最新の研究成果に基づき叙述する一冊。

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日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(洋泉社歴史新書y、2015年)

概要と感想

本書の目次は以下の通り。
はじめに
【第1部】政治権力者としての実像とは
五大老五奉行は、実際に機能していたのか(堀越祐一)
秀吉は、「大名統制」をどの程度できていたのか(光成準治)
秀吉は、天皇・公家衆を思いのまま動かしていたのか(神田裕理)
秀吉は、官位をどのように利用したのか(木下聡)
知られざる秀吉政権・黎明期の家臣たちとは(岡田謙一)
【第2部】誰もが知っている秀吉が命じた政策
太閤検地」は、秀吉の革新的な政策だったのか(鈴木将典)
「刀狩」は、民衆の武装解除をめざしたのか(荒垣恒明)
秀吉が命じた「惣無事」とは何だったのか(竹井英文)
秀吉による「天下統一戦争」は定説どおりか(長屋隆幸)
秀吉は、なぜ挑戦に出兵したのか(小川雄)
【第3部】秀吉の宗教・文化政策の実像
秀吉は、なぜ京都東山に大仏を造立したのか(生駒哲郎)
秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか(清水有子)
秀吉の人生にとって「茶の湯」とは何だったのか(大嶌聖子)
【第4部】秀吉の人生で気になる3つのポイント
秀吉の出自は、百姓・農民だったのか(片山正彦)
秀吉は、本能寺の変後から全国統一をめざしていたのか(金子拓)
秀吉は、家康を警戒していたのか(平野明夫)

本書は、天下統一を成し遂げた秀吉が行った「太閤検地」や「刀狩」「惣無事」「キリスト教禁止」などの著名な政策について、その実態・実施状況について最新研究を踏まえて述べられているほか、五大老五奉行制や官位秩序による大名編成などの、大名統制についての様々な論点を理解しやすくまとめられている。また秀吉の出自についての研究史をまとめた片山氏の論考は、非常にわかりやすくまとめられており印象的だった。

気になったところ

城郭を主な関心とする本ブログとしては、光成準治氏の論考に注目したい。氏は、秀吉の大名統制として知られる「城割」「城下集住」の2つの政策をあげ、それぞれの実施状況を紹介している。「城割」については、毛利氏に対して豊臣政権は強制できない状況であり、島津氏に対しては強制したものの十分な城の破却はされなかったという。「城下集住」に関しても、築城当初の広島城下町では、上層家臣団でも常住率が高くなかった点、長曾我部氏の浦戸城下でも城下集住を強制する原則は存在しなかったという研究成果を紹介している。これらのことから、豊臣政権の大名統制には限界があった点を指摘している。
「城割」については、近年、福田千鶴『城割の作法』(吉川弘文館、2019)も上梓されている。


福田氏も同書で述べるように、豊臣政権は自律的な城割を志向する傾向がうかがえるため、城割を大名統制策として強制できたのかについては、より深く検討する必要があると考える。

西股総生著『パーツから考える戦国期城郭論』(ワン・パブリッシング、2021)

西股総生著『パーツから考える戦国期城郭論』(ワン・パブリッシング、2021)読了。
戦国時代の城郭を構成する、空堀・土塁・切岸・虎口・曲輪などのパーツを個別に取り上げ、形態や機能とその変化について、実戦での使用にも即して解説する1冊。

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西股総生著『パーツから考える戦国期城郭論』(ワン・パブリッシング、2021)

概要と感想

 本書では、「曲輪」「虎口」「土塁」「空堀」といった城を構成する部品について個別に解説を行い、それぞれが合戦の場面でどのように機能したのか、また歴史的にどういった変化をしたのかを考察している。こうした城郭用語について、個別に詳細に解説されたものは多くはないだろう。またそれぞれのパーツの観察の仕方についても、「観察の極意」というコーナーを設けて解説を加えている。こちらでは特に、城郭が立体構造物であることを強調されており、平面投影された縄張図・実測図のみではわからない、現地での観察の重要性を説く。
 また馬出に関しては、武田氏系の丸馬出が堡塁からの進化、北条氏系の角馬出は帯曲輪からの進化として推定しており、一つのパーツをとっても、異なる経緯で発達したものもある点が非常に興味深い。
 天守の項では、戦闘施設としての天守の役割を論じており、占地(山城・平城)と天守の規模の関係性について、軍事的側面から解説されており、納得するところがあった。
 最後に、上総国坂田城を事例に、戦国期国衆井田氏の軍事力編成が坂田城の構造にどのように対応しているかを確認し、城の縄張が、現実の大名・国衆の軍事力に即して設計されたものであったことを明らかにしている。

気になったところ

 本書では、それぞれのパーツが、単純→複雑という単線的な進化を遂げたわけではなく、大名や地域・時代・地形などの様々な要因によって異なる対応・適応をとり変化を遂げている様相を明らかにしている。しかし、本書の中で筆者はそれらの変化を「進化」と表現している箇所もみられる。本書ではパーツを個別に解説することが特徴であるが、ここで解説されている内容がどの地域においても一般化できうるものなのか。地質・地形や大名・国衆の軍事力編成など、地域ごとの特性を見落としてしまう。本書では、主に東国の城郭を中心に取り上げられて解説がなされているため、東国城郭におけるパーツの変遷を明らかにしているものといえよう。個人的には、日本列島各地の地域性についてパーツから読み取れることなどがあるのか、検討すべき点であると思われた。

築城の故実

 有職故実とは、公家や武家儀礼・官職・制度・服飾・法令・軍陣などの先例・典故をいう。
 武家故実には、出陣祝や首実検、陣幕の打ち方や御旗の前の通り方、鬨の声などの様々な故実・習俗が故実書に記されている。特に出陣に際しては、方位に関しては北、日時に関しては往亡日を嫌うとか、軍陣においては、落馬や弓折れ、鼠・犬の走り方にまで吉凶を定めるなど、様々なタブーや縁起かつぎが行われた。これらの作法や習俗は、衆心を納得させたり、士気を高めたりするために行われていたことが、既に二木謙一氏や小和田哲男氏によって指摘されている*1
 以上のように、戦陣においては様々な作法や習俗がみられるが、武士が居住し、時には戦場ともなる城館に関しても、同様の作法やタブーなどが存在したのだろうか。このエントリでは築城に関する故実を中心に、城館における作法や習俗を考える。
 築城に関する故実として、まず挙げられるのが、地鎮の儀式である。上野国長楽寺の僧松陰が記した『松陰私語』のなかに、「金山城事始」という一節が存在する。その中で松陰が、上野国金山城の築城に際して、「鍬初」の後に、「上古之城郭保護記」をもとに「地鎮之儀式」を執り行っている。この「上古之城郭保護記」の詳細は不明であるが、地鎮の際に、先例や故実などが参照されたと考えられる。また、『甲陽日記』では、武田氏の城での地鎮の儀礼を「鍬立」と呼んでいる。「鍬立」の記事には時刻・方位などが記されており、陰陽道に関わるものとみられる。島津氏では「地取之書」(「島津家文書」)というものがあり、築城などの際には、弓を用い征矢を立て地取し、「鍬入」を行い、神歌を唱え、御幣を串に挟み、摩利支天の印を結んで真言を唱え、洗米と酒を地神・荒神に供えたという。豊臣政権も土木工事の地鎮において陰陽師を活用していたことを、三鬼清一郎氏が明らかにしているように*2、地鎮の儀礼は、陰陽道の影響を強く受けているものと考えられる。
 こうした陰陽道の考え方が、城の立地にも応用されている場合もある。島津氏に仕え、『山田聖栄自記』や弓矢等の故実書などを書き残した山田聖栄は、「城取地形図伝書」(「山田文書」)という城の占地などに関する故実書も記している。この中では、女が伏せたような地形に城を取るのは不吉であり、東西南北に堀を切ることで、「男ノ臥タル様ニナスへシ」としている。また城中に用いる水は、北の方から出るものを使ってはいけないとしている。これらからは、陰が女や北であり、陽が男や南であるという陰陽思想の影響が見られ、軍陣における作法や習俗と通ずる部分があるようにも考えられる。

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『築城記』にみえる門の図(『群書類従』第23輯より)

 一方で、こうした陰陽道の考え方が見られない築城の故実も存在する。越前朝倉家に伝えられた一巻の伝書である『築城記』は、築城と城郭建築の実際について極めて具体的に述べたものとして知られる。例えば、第一条では、飲料水の確保という視点から山城の立地条件を述べており、水源のある山の尾根を掘り切ったり、水源近くの大木を切り取ったりして、水が止まる危険などを指摘している。他にも塀や木戸、櫓の寸法や構え方などが細かく記されており、前述の「城取地形図伝書」とは雰囲気を異にする。このことから、各大名家の築城に関して保持していた知識や技術は、微妙に異なっていたものと推測できる。
 だが、この『築城記』は、朝倉氏が家臣の窪田三郎兵衛尉に相伝し、そこから若狭守護武田氏の家臣であった親類の窪田長門守に相伝し、さらに室町幕府政所伊勢貞孝の臣である河村誓真が、永禄8年に書写したものである。『築城記』における塀や狭間の情報に関しては、多賀高忠の記した『就弓馬儀大概聞書』や玉縄北条家に伝わった『出陣次第』にも、類似したものが見られる。これらから竹井英文氏は、築城技術が書物によって大名領国を越えて広まり、各大名家がそれらを入手・保持し、築城に関する学習・教育を行っていた可能性を指摘している*3
 以上のように、築城に関する故実においても、地鎮の作法や築城におけるタブーなどが存在した。それぞれの故実の内容には、共通点や相違点が認められることから、各大名家は築城に関する作法や習俗を入手しつつ、それぞれの築城技術を模索したと考えられる。


▶「本ブログのトリセツ」へ

*1:『中世武家の作法』『占星と呪術の戦国史

*2:「普請と作事―大地と人間―」『日本の社会史8 生活感覚と社会』

*3:『戦国の城の一生』

日本史史料研究会編『信長研究の最前線 ここまでわかった「革命者」の実像』(洋泉社歴史新書y、2014年)

日本史史料研究会編『信長研究の最前線 ここまでわかった「革命者」の実像』(洋泉社歴史新書y、2014年)読了。
近年の織田信長研究についての14項目のテーマから、従来の信長像との認識差を明らかにする1冊。

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日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(歴史新書y)

概要と感想

本書の目次は以下の通り。
はじめに
【第1部】政治権力者としての実像とは
信長は、将軍足利義昭を操っていたのか(木下昌規)
信長は、天皇や朝廷をないがしろにしていたのか(神田裕理)
信長は、官位を必要としたのか(木下聡)
織田・徳川同盟は強固だったのか(平野明夫)
信長は、秀吉をどのように重用したのか(小川雄)
【第2部】信長は軍事的カリスマか
桶狭間長篠の戦いの勝因は(長屋隆幸)
信長は、なぜ武田氏と戦ったのか(鈴木将典)
信長を見限った者たちは、なにを考えていたのか(天野忠幸)
明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか(柴裕之)
信長は、なぜ四国政策を変更したのか(中脇聖)
信長家臣団における「勝ち組」「負け組」とは(片山正彦)
【第3部】信長の経済・文化政策は特筆されるか
信長の流通・都市政策は独自のものか(長澤伸樹)
信長は、宗教をどうとらえていたのか(生駒哲郎)
信長は、文化的貢献をしたのか(大嶌聖子)

本書の特徴は、従来の天下人織田信長像に囚われず、最新の戦国史研究の視点から信長の政策・戦略に迫る点である。そのため、信長研究そのものだけでなく、秀吉や家康、他の戦国大名、朝廷の研究など、信長研究に隣接する研究の視点から信長を再評価している。
特に、平野氏の論考は徳川家康研究の視点から信長との同盟を考察し、鈴木氏は武田氏研究の視点から信長との外交関係を見直している。天野氏も松永久秀荒木村重の研究から信長との関係性を考えるように、他の戦国大名研究の視点から見た信長像を提示しているのが本書の魅力の1つだ。
また、本能寺の変に関して注目される研究についても柴氏と中脇氏が論考している。光秀が取次をつとめた長宗我部氏との関係性や、信長の四国政策における三好氏の位置など、近年の本能寺の変に関する研究成果が反映されている。
信長の経済政策・宗教政策・文化面についてもテーマが設定されている。特に長澤氏の論考は、信長の経済政策として著名な楽市楽座についての研究を押し進めるものであり、地域の状況に即した経済政策を行ったという信長の新たな一面を明らかにしている。

気になったところ

長澤氏の論考のなかで、「湖の城郭網」についての考察がされている。「湖の城郭網」とは、信長の居城安土城を中心に、坂本・長浜・大溝の各城を湖岸の要衝に配置し、琵琶湖の制海権を握るためのネットワークのことで、湖上交通の軍事的利用をめざす信長の交通政策として知られる。長澤氏は、琵琶湖が東国や北陸からの物資を京都へ運ぶうえで欠かせない交通の大動脈として認めた上で、信長による湖上水運の掌握・利用があくまでも一時的なもので、史料などを踏まえると陸路の利用も重視するべきだとしている。琵琶湖の湖上交通については、地政学的に考えられることは多かったものの、実際に史料を確認することで、その存在や交通の状況を浮き彫りにする必要性を感じた。水上交通の存在と城郭の立地を結びつけるには、史料の博捜の上で再考していかなければならないと考えた。

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村井良介著『戦国大名論 暴力と法と権力』(講談社選書メチエ、2015年)

村井良介著『戦国大名論 暴力と法と権力』(講談社選書メチエ、2015年)読了。
戦国時代における暴力と法といった権力論の課題から、戦国大名という規定やその特質を明らかにする1冊。

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村井良介著『戦国大名論 暴力と法と権力』(講談社選書メチエ)

概要と感想

本書の序盤では、戦国大名や戦国領主(国衆とも)と呼ばれる領主権力に関して、どちらも独自の「家中」と「領」を持つ存在であり、戦国領主が戦国大名と同格の存在であり、両者の関係が戦国期の権力構造や支配体制の特質を考える上で、重要な論点としている。次に戦国大名の支配体制の成り立ちについて分析する際には、暴力のよる支配と正当性を帯びた法的・公的な支配の二つの側面を対極におく二元論として論じられがちであるとしている。これは戦国期研究において、中世の恣意的暴力的支配から近世の法的機構的支配への転換期としての見方がおこなわれているため、戦国大名がどれだけ中世の暴力的・私的支配を克服し、近世の法的支配に近づいているかを測るという方法で論じられているとする。筆者はこうした二元論的な手法を見直し、戦国社会における権力関係のなかに法と暴力の問題がどのように位置づけられるのかを考察する。

本書の主旨としては、暴力と法(正当性)は切り離せないものであり、支配状態をつくり出すのに両者は複合して重要な役割を果たしているとしている。こうした支配状態の前提には、在地領主が一般農民と結ぶ主従関係や、その他の一般農民への在地領主の政治的圧力のような、社会に張り巡らされた無数の関係性(構成的支配)がある。こうした無数の関係性は、経済・政治状況や軍隊によって左右される流動性・可動性をもっており、この可動性が軍隊による暴力などによりせき止められることで支配という状態・秩序が出現する。
戦国期には、所領が「~職」と表示され、それが将軍や守護によって安堵されているというような室町幕府―守護体制の秩序体系・法・制度への信憑性が揺らぎ、「職」秩序に依拠しない実力占有が多発する。そのなかで郡などの既存の枠組みとは無関係に、軍事的・政治的な条件によって「家中」や「領」が規定され、戦国大名分国が出現する。このように室町期の秩序が流動化し、可動性の高まった権力関係のなかで暴力が前景化する。軍事的優位な戦国領主や戦国大名とその支城主らが諸領主層を再編し、「家中」という擬制での固定化・軍事的制服の結果としての「領」の形成が行われ、新たな秩序が構築されたが、これは軍事的な情勢の変化によって流動化しやすい、可動性を大きく残したものだった。こうした可動性は、統一政権による自力の否定が完了されることで抑制される。豊臣政権は四国出兵・九州出兵・小田原攻めにおける暴力の行使によって、法秩序の受容を迫った。このように法秩序の再編にあたって暴力は中心的役割を果たしており、戦争のない近世社会の中でも法秩序に服さない者に対して制裁を加える際の回避選択肢として暴力が存在していた。暴力と法は対極にあるものではなく、中世・近世の別なく両者は不可分なものであり、戦国期は法の根源にある無根拠な暴力が露出した社会であった。戦国大名や戦国領主はこうした社会に対応した特質をもつ権力であったのである。


本書を読んで、戦国大名や戦国領主という概念・枠組みや戦国時代そのものを、権力論の視点から考え直すきっかけを掴んだような気がした。これまで読んできた戦国大名に関連する書籍は、史料に基づく具体的な歴史的事実の整理が主となっているものが多く、より広い視点・大きな概念の段階から戦国時代を考える機会は少なかった。しかし、本書は戦国時代における権力関係の動きの抽象化を試みることで、大きな枠組みから同時代を見直し、特定の人物が果たした役割よりも社会全体の動きを冷静に俯瞰する。そして権力のもつ暴力と法秩序の2つの側面の関係性から、戦国時代の再定義を行っている。こうした大きな枠組みからの戦国時代の検討は、具体的(あるいは特異的)な歴史的事実を捨象してしまう可能性もあるが、具体的な事実関係の整理のみでは戦国期における大きな胎動はわからない。抽象化された大きな枠組みからの検討と、具体的な事実関係の確定は、歴史研究における車の両輪のようであり、特に前者の視点を忘れないようにしたいと感じた。本書を読んで、戦国時代全体の理解が深まった。

気になったところ

城館を研究しているブログ主としては、城館の役割を検討するにあたり、暴力と正当性の問題は考えないといけないものだと感じた。城は単なる軍事拠点なのかという「城とは何か」論や、城と聖地に関する議論は、まさに城館に見る権力の正当性に関わる議論といえる。しかし、城という場において暴力の側面は排除できない。本書でも指摘されるように、暴力と正当性の二元論に陥らず、両者が不可分の関係である点を考慮して、城館という場も検討しなければならないと感じた。これは中世から近世における城の役割の変化や、城割りといった習俗、避難所としての城の役割を検討する際にも、忘れてはならない視点であると考えた。