非城識人ノート

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八田知家と名門常陸小田氏―鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史―@土浦市立博物館

先日、土浦市立博物館にて行われていた特別展「八田知家と名門常陸小田氏―鎌倉殿御家人に始まる武家の歴史―」を拝観しました。

土浦市立博物館

本展は初期の鎌倉幕府御家人であった八田知家に始まり、約700年にわたる常陸小田氏の一族の足跡について紹介する展示でした。小田一族を初代から江戸時代まで扱うのは初の試みであるようで、とても力が入った展示となっていました。

八田知家は、鎌倉幕府の13人の合議制のメンバーの一人でもあり、常陸国の守護をつとめていましたが、その足跡を紹介した展示は貴重であり、見ごたえがありました。特に筑波山麓の六所神社に知家が寄進したという御正体の写しは、知家が小田の近辺に拠点を持っていたことを推測させるもので興味深かったです。
また、知家の後、四代目の時知の時に小田氏を名乗り始めますが、このころ執権北条氏が権力を拡大しはじめるとともに、常陸国守護としての小田氏の支配に動揺が見られるようになります。南北朝時代になると、常陸における支配をとりもどすために南朝方に属し、北畠親房とともに北朝方の佐竹氏と戦いを繰り広げますが、のちに北朝方に降伏します。この時の小田治久を南朝方の武将として顕彰した歴史学者平泉澄の著作を挙げたうえで、小田氏の動きは一枚岩ではなく必ずしも南朝の忠臣とはいえないのではないかと考察されているところは興味深かったです。
本展で一番興味を惹かれたのは、小田孝朝の袖判下文です。北朝方についた小田氏は、足利氏一門に匹敵する従四位下の位を与えられ、さらには袖判下文を発給しており、当時小田氏が影響力を強めていたことがうかがえます。袖判下文は鎌倉幕府足利将軍家などの有力者が用いるものであり、ブログ主は将軍以外が袖判下文を用いている例を本展で初めて知ることができました。
戦国時代の小田氏は、最近ではテレビでも取り上げられるほど、有名になりつつありますが、本展では、その後の小田氏家臣団の動向を取り上げており、江戸時代の小田一族の動向や小田氏顕彰の動きと旧領住人との関係など、たくさんの史料を用いて紹介していました。こうした顕彰の動向を追うことができるのも、小田氏が長い歴史をもつ一族であったためとも思われました。

本展の図録

本展では図録も充実しており、キャプションの全文のほか、特別寄稿3本と論稿2本やコラムまでついており、価格は1000円ですが、それ以上の価値のある力作となっておりました。また別の冊子で展示資料翻刻もあり、じっくり読み返して、常陸国の中世に思いをはせたいと思います。


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