非城識人ノート

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戦国時代の鎌倉@鎌倉歴史文化交流館

先日、鎌倉市の鎌倉歴史文化交流館にて行われている企画展「戦国時代の鎌倉 もとの都に成してこそみめ」を拝見しました。

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企画展ポスター
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鎌倉歴史文化交流館

本展は、鎌倉幕府以来政治の中心地として栄え、鎌倉府の滅亡とともに荒廃した都市鎌倉において、小田原北条氏が鎌倉周辺をどのように治めたのか、古文書・考古資料から読み解く展示となっていました。

特に伊勢宗瑞が築いた玉縄城に関する出土物が多くの展示されていました。白磁などの舶来品や、重ねられた状態(地鎮のためか)で出土した瀬戸・美濃系の小皿、鎌倉市内でも出土が少ない内耳土鍋があり、北条氏の支城としての役割を出土物から感じられました。

古文書の展示は、小田原北条氏が鎌倉の寺社に発給した文書が多かった印象を受けました。荏柄天神社に残された「荏柄社造営定書案」は、北条氏康が同社の再興のために関所を設けさせ、徴収した関銭を造営費に充てるように定めたものでした。

また、玉縄城の2代城主北条為昌が光明寺に宛てて、三浦郡一向宗門徒光明寺の檀那になるよう命じた朱印状や、建長寺龍源軒が報国寺の敷地半分の所有を訴えた事について、鎌倉代官大道寺政繁が北条氏家臣安藤良整と連絡をとった書状などの展示があり、北条氏による鎌倉支配の具体例が読み取れました。

本展では、小田原北条氏と鎌倉の職人との繋がりについての展示も目を引きました。北条氏綱による鶴岡八幡宮の修造の様子が記された「快元僧都記」(別名・鶴岡平氏綱再興記、國學院大學蔵黒川家本)では、鎌倉や京都など各地の職人が集められ、同宮の修造を行っていた様子が読み取れました。修造に携わった職人たちは、北条氏の保護のもと現地に定住したようです。「小田原衆所領役帳」では、職人衆という分類の中に「玉縄番匠」「綱広鍛冶」など鎌倉に関係の深い職人が記されていました。「綱広鍛冶」は北条氏の庇護をうけた刀工で、綱広の太刀はエントランスの常設展に陳列されていました。鎌倉歴史文化交流館の位置する場所は、江戸時代には綱広の屋敷があったようで、一帯は「綱広谷」と呼ばれているそうです。

本展の展示リスト↓

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企画展「戦国時代の鎌倉」展示品リスト

受付では同展のハンドブックが配布されており、企画展鑑賞後の復習になりました。

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企画展「戦国時代の鎌倉」ハンドブック


ブログ主自身、鎌倉歴史文化交流館に初めて訪問しましたが、想像以上に常設展も充実しており、見入ってしまいました。特に中世の展示室では、永福寺跡の遺物や寺社・町場から出土した舶来品・地鎮具などが豊富に展示されており、中世都市鎌倉の生活を垣間見ることができました。

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「戦国時代の鎌倉」チラシ(表)
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「戦国時代の鎌倉」チラシ(裏)

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