非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

河内長野の霊地 観心寺と金剛寺 真言密教と南朝の遺産@京都国立博物館

先日、京都国立博物館にて行われた特別展「河内長野霊場 観心寺金剛寺真言密教南朝の遺産―」を拝観しました。

同展の看板
京都国立博物館

本展は、大阪府河内長野市に所在する真言密教の大寺院、観心寺金剛寺において2016~2019年にかけて行われた文化財悉皆調査の成果を公開するとともに、両寺の歴史を紹介する展示となっていました。
展示は、
1、真言密教の道場
2、南朝勢力の拠点
3、河内長野の霊地
の三章構成となっており、特に1章の展示が豊富だった印象をうけました。
観心寺というと秘仏如意輪観音坐像が特に著名で、金剛寺も女人高野として知られていますが、実は両寺とも南北朝時代には南朝勢力の拠点となっていた寺院でした。両寺はどちらも後醍醐天皇の皇子後村上天皇の行宮が置かれた場所であり、特に金剛寺南朝方によって連れ去られた北朝の三上皇光厳・光明・崇光)が滞在していた場所でもあり、南朝北朝上皇天皇が同じ境内にそろって滞在するというカオスな事態が生じた場所です。また、観心寺金剛寺のある河内長野市の隣は、楠木正成の本拠であった千早赤阪村があり、両寺も楠木正成と深いかかわりがあります。本展では、楠木一族が金剛寺に奉納したと伝わる二十領の腹巻がすべて出陳されており、壮観でした。また金剛寺所蔵の楠木正成の自筆書状や、後村上天皇の念持仏とされる厨子愛染明王坐像も見ることができ、南朝の歴史を体感することができました。
 本展では観心寺金剛寺の成立以降の寺宝や、安土桃山頃のものも紹介されていました。特に神仏習合関係の品々も興味深く、観心寺の鎮守社で現在は廃絶している西ノ宮社に安置されていたと思われる板絵種字五社明神図・板絵種字牛頭天王幷五社明神図は、今回の文化財調査で確認された御正体だそうです。金剛寺の僧形神坐像も同寺の鎮守社に関係するものでしょうか。金剛寺といえば、日月四季山水図屏風が著名であり、本展にても展示されていました。この屏風について図録の解説には、「同時代に大陸や琉球の宮廷で皇帝あるいは国王の背後に立てられた日月図に注目し、かつての南朝行宮への思慕から調度品として置かれたものが灌頂儀礼に転用されたという説は、多くの問題を残すものの金剛寺日明貿易の流通圏にあったという推測を踏まえれば、魅力的ではある」と記述されており、屏風に関する謎も魅力的に感じます。また、金剛寺は天野酒を醸造していたことでも著名であり、信長や秀吉が天野酒を求めた黒印状・朱印状が出陳されていました。豊臣秀頼による寺院再建関係の資料もあり、近世初期の姿もうかがえます。
 本展では他にも様々な新発見の品も出陳されており、観心寺金剛寺の魅力が伝わる展示でした。特に中世に発展した両寺の姿に思いをはせることができました。

同展図録


▶「本ブログのトリセツ」へ

曽根原理著『神君家康の誕生 東照宮と権現様』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2008年)

曽根原理著『神君家康の誕生 東照宮と権現様』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2008年)、読了。徳川家康東照大権現として祀られる経緯と、家康の神話が誕生する背景を叙述した1冊。

曽根原理著『神君家康の誕生 東照宮と権現様』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2008年)

概要と感想

 以前にも家康の神格化に関する本を読んだが、これと比べて本書は家康神格化以降、近世社会に東照大権現が及ぼした様々な影響を紹介している。
oshiroetcetera.hatenadiary.com
 本書の前半は、徳川家康東照大権現として東照宮に祀られる経緯を、天海と山王神道との関わりから述べている。家康以前は天道思想という論理で、政治秩序がつくられていた。織田信長豊臣秀吉も天道思想が見られたが、家康の頃から大きな転換がはじまる。

天道は、新たな秩序を作り出す上で有効性を持ったが、それを固定化するには向かなかった。そのため、天道に代わる新たな人格神が求められた。政治権力者の神格化が始まった必然性はそこにあった。そこで求められたのは、権力者の子孫永続を擁護する存在である。天道思想が理念(道徳性など)を為政者の要件としたのに対し、血統を要件とする新たな人格神を必要とされた。家康は、信長や秀吉を反面教師として、はるかに強く祖先神という性格を打ち出す必要があったのである。(p.34)

家康は来世での極楽往生を願う浄土宗の信者であったが、徳川家の子孫永続という現世利益を願った。そのため天台仏教と山王神道により治国を実現しようとしたのである。
こうした理念は、家康死後、天海が『東照社縁起』を表したことなどによって理論化された。 
 本書の後半では、「神君」家康信仰・東照宮信仰が全国でどのように広まったか、また徳川「王権」を作りだすために必要とされたことが述べられる。家康の神話が作り出されることにより、徳川家康徳川将軍家)が神聖な存在とされ、天皇の権威を凌駕するものとして観念されるようになっていった。人格神として祀られた家康が、近世の安定した社会における精神世界に及ぼした影響は大きいものであると感じられた。一方で地方の大名家でも東照宮は祀られたが、大名ごとによって扱い方が異なった点も興味深い。
 最後は権威と権力の関係、徳川は王権なのか、という大きな問いに至る本書は、政治的立場の正統性を示す上で、神話や信仰が果たす大きさを感じられる。本書は以下のような言葉をのこしている。

いかなる時代であっても、人々が求めるものは現世利益であり、その最たるものは平和で安定した生活であろう。そう考えるなら、拠るべき神仏を持たない多くの現代人にとっても、近世の人々の願いは決して他人事ではない。権力の仕事ではあっても、その底に人々の平和の希求があり、仏教の精神に基づきそれを叶えようと志した人々がいた。そこに、家康神格化を考える現代的意義があるのではないだろうか。

▶「本ブログのトリセツ」へ

末木文美士著『中世の神と仏』(山川出版社日本史リブレット、2003年)

末木文美士著『中世の神と仏』(山川出版社日本史リブレット、2003年)、読了。日本中世史における神道論の動向を追いながら、神と仏、神道と仏教が相互に影響した関係性を叙述する1冊。

末木文美士著『中世の神と仏』(山川出版社日本史リブレット、2003年)

概要と感想

 本書は、一般には知名度の低い、日本中世の神道について、その教義的な体系が形成される動向を簡潔に叙述したものである。明治時代に行われた神仏分離以前、日本の宗教は、神仏習合の状態であったことは日本史の教科書でも習う事項であるが、その神仏習合がもっともダイナミックに展開したのが中世であった。本書ではこの展開の面白さを学ばせられる。
 本書では、まず古代までの神道の概念について解説される。神仏習合といっても、神と仏がすべて融合しているわけではなく、それぞれの役割を果たすことで互いを補い合っているという関係にあった。やがて仏教の影響により、神道にも教義的な体系が形成され始める。本書では、主に山王神道伊勢神道両部神道について紹介しており、本地垂迹理論の形成から、神道を優位とする考え方へ発展していく様子を解説する。
 特に興味深かったのは、中世神話が生まれてくる部分であった。

神道が仏教から自立しようとしたとき、着目したのは、ヒンドゥー教であり道教であった。仏教という世界宗教と関係しながらも。そこに収斂しきれないアジアの土着宗教の共通性を、いち早く中世神道の形成者たちは感づいていたのである。仏教からみれば外道にあたる宗教への着目が新しい創造の道を開いてくれる。それが中世神話と呼ばれるものであり、記紀神話とまったく異なった豊かな物語世界へと導いてくれる。(p.65)

 ここで驚かされるのが、アジアの土着宗教にまで視野を広げて、神道を位置づけようとした動きである。これは仏教に対する深い学び無しには、神道理論の形成はならなかったことがわかる。
 その後、南北朝時代になると、神道天皇の関係が定まり始め、神話から歴史への接続を模索し始める。そして、中世の末期には吉田神道によって、神道の統合が図られる。あたかも純粋に受け継がれてきたようにみえる神道も、仏教や歴史の変遷に影響されて形成された産物だったのだ。
 このように本書は、日本史を学ぶ上で一番難解な中世の宗教史を興味深く知ることができる。本書を足がかりに中世の宗教史を学んでいきたい。

▶「本ブログのトリセツ」へ

黒田基樹著『下剋上』(講談社現代新書、2021年)

黒田基樹著『下剋上』(講談社現代新書、2021年)、読了。家臣による主君のすげかえ・主殺し・主家の傀儡化など、戦国時代に全国で行われた主な下剋上の事例を紹介し、その特徴を探る1冊。

黒田基樹著『下剋上』(講談社現代新書、2021年)

*概要と感想
 下位の者が上位の者にとってかわる。「下剋上」は現代でも耳にする言葉であるが、歴史上で最もイメージされやすいのは戦国時代であろう。本書では、戦国時代に下剋上を成し遂げた武将たちの事例を取り上げ、それらに共通する特徴や背景を見ようとしたものである。本書では、長尾景春、伊勢宗瑞、朝倉孝景尼子経久長尾為景景虎(上杉謙信)、斎藤利政(道三)、陶晴賢三好長慶織田信長豊臣秀吉徳川家康の事例を紹介しており、戦国時代の初期から終焉まで東から西までまんべんなく下剋上の事例に当たっている。その中では、伊勢宗瑞のように下剋上の代表例というイメージから修正を必要とするものも含まれており、後世の軍記物で語られる下剋上のイメージにとらわれず、史実に即して実態をとらえようとしている。
 本書を通読していて興味深かったのは、下剋上をした後の対応の特徴である。主殺しや傀儡化・追放を成し遂げたとしても、自身の政治的地位を確保し続けるのは、難しい。そのために室町幕府からの国主・守護家相当の家格の獲得が必要であった。戦争が恒常化し、身分秩序が改編する戦国時代であっても、身分制社会に基づいて下剋上が行われた。(いや、むしろ身分制社会だからこそ下剋上という現象が起こるのは当然であるが)ただ主君を排除するだけでは下剋上とはならないということには改めて気づかされた。また、下剋上には事後の家中の支持も取り付ける必要があり、下剋上には反対勢力の反撃を受けるリスクも高かった。そのため主君を排斥した後に新たな当主を擁立している事例も多い。下剋上とは、身分秩序を破壊する行為なのではなく、身分秩序が前提となっている行為であることが本書を読むと実感できる。本書では様々な下剋上の事例が紹介されているが、やはりそれらの事例を通じて室町幕府の存在は決して軽視できない。戦国大名が家格を獲得するうえで重要であり、戦国大名は、中央に頼らず独力のみで政治的地位を確保したわけではなかった。本書は戦国時代における主な下剋上の事例を紹介し、共通する特徴を析出するという、今までありそうでなかった視点の分析が行われた点においても、その意義は大きい。

▶「本ブログのトリセツ」へ

三鬼清一郎著『大御所徳川家康 幕藩体制はいかに確立したか』(中公新書、2019年)

三鬼清一郎著『大御所徳川家康 幕藩体制はいかに確立したか』(中公新書、2019年)、読了。江戸幕府を開き、大坂の陣豊臣氏を滅亡に追い込むまでの、家康の大御所政治とその功績を叙述する1冊。

三鬼清一郎著『大御所徳川家康 幕藩体制はいかに確立したか』(中公新書、2019年)

概要と感想

 本書は題名のとおり、徳川家康が大御所と呼ばれた時代に約260年続いた幕藩体制の基礎をどのように作り上げたかを描く。そのため、本書は編年で家康の事績を追うのではなく、天下普請や御三家の成立、外交政策大坂の陣などの幕藩体制を確立するトピックを取り上げている。そのため家康の功績のみならず、初期江戸幕府の状況・動向についても述べられており、家康の大御所政治というよりも、必ずしも盤石でなかった初期江戸幕府の姿を叙述しているといってよい。一方で豊臣政権との比較も随所で行っており、家康の政権を相対的評価をしている。
 本書の特色としては、章の終わりごとに、読書案内のコラムを載せている点である。山本周五郎『樅ノ木は残った』や遠藤周作『沈黙』などの名作から、岸宏子『江戸・管理職哀歌 藤堂藩伊賀城代家老の日誌より』といった歴史本まで幅広く紹介されており、どれも江戸時代初期の時代観を感じられる名著である。今後是非読んでみたいものばかりだ。司馬遼太郎『覇王の家』森銑三徳川家康』や松本清張徳川家康』など、家康についての小説も紹介されており、時代の変遷や著者によって異なる家康のイメージについても述べられている。
 本文の内容としては、対馬を中心とした日本と朝鮮の外交の実態や、「惣無事」に対する著者の考え方が明示されている点を興味深く読んだ。また、家康最晩年の隠居所としては駿河国泉頭が候補にあったことは知られるが、計画が中止されたのち、遠江国中泉も隠居所の候補であったという指摘も興味深い。
 本書は、近世初期を理解するうえで重要なトピックを、家康という人物を通して読者に語りかける。

▶「本ブログのトリセツ」へ

柴裕之著『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)

柴裕之著『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)、再読了。誕生から江戸幕府を開くまでの徳川家康の生涯を、「松平・徳川中心史観」を排除し、当時の政治構造に即して叙述する1冊。

柴裕之著『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)

概要と感想

 本書は以前にも通読したことがあるが、最近、徳川家康関係の様々な本を読み比べる中で、もう一度読み直したくなった。


 本書の特色は、本書のあとがきにも述べられているように、
①「松平・徳川中心史観」をできるだけ排除し、同時代史料から家康像を描く。
戦国大名領国である「境目」の動向を中心に、家康の動向を描く。
③戦国時代は、京と五畿内からなる天下と、戦国大名たちの地域「国家」から「日本国」が構成されており、こうした政治構造を前提に、家康の活動の過程を追う。
という3点が重視されている。そのため、個別の具体的な合戦や地域の状況についての詳細については多くを触れていない。その代わりに、家康の動向・立場の変化を、現代の日本とは異なる当時の政治構造の中で理解しようと試みており、天下や地域「国家」といった抽象化された用語で叙述する。こうした叙述は、家康個人の英雄史観に陥らず、家康の活動が決して同時代において特異なものではなく、当時の政治・社会構造に即した対応がなされていたということが読み取れるのである。
 その一方で、家康は織田・今川領国間に挟まれた境目の国衆として大名に保護を求める立場から、複数の国衆を従えて独自の地域「国家」(惣「国家」)を築き上げた戦国大名となり、秀吉政権に従属すると、豊臣大名の中でも最大の勢力をもち、秀吉死後、政権の主導権を握り始めることで「天下」に君臨するようになるという、その時代の政治・社会構造の中でも様々な立場を経験した人物であることを描き出す。
 現代の我々は、家康が江戸幕府を開いた人物であるという知識を前提に彼の生涯を思うが、彼自身は生まれた時から江戸幕府を開くとは思いも寄らなかっただろう。しかし、彼はその時その時の自らの立場の中で、最善と思われる選択を行った。もちろんその選択が周囲や家臣からの不満を生み、自らに降りかかる危機ともなった。それらの選択や危機は、彼が天下人になるまでに耐え忍んだ苦難ではなく、同時代の政治構造・社会構造が生み出した課題に立ち向かった結果なのである。
 本書は、歴史学の立場から人物の生涯を描き出す難しさと意義を教えてくれる。

▶「本ブログのトリセツ」へ

笠谷和比古著『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』(ミネルヴァ書房、2016年)

笠谷和比古著『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』(ミネルヴァ書房、2016年)、読了。家康の生涯を叙述し、その人物像や政治思想の解明を試みる1冊。

笠谷和比古著『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』(ミネルヴァ書房、2016年)

概要と感想

本書は、徳川家康の生涯における事績を追い、彼の人物像や政治思想などにも触れた、重厚な伝記である。
日本史研究者が家康の生涯を叙述した概説書は複数あるが、本書はその中でも重厚であり、読み応えがある。しかし、内容を通読すると、家康の事績を丹念に追いかけているが、『三河物語』をはじめとする後世の編纂物を典拠とした記述も多い。特に、家康の前半生(秀吉への臣従以前)に関する記述は、もちろん同時代史料に基づくものもあるのだろうが、その典拠が示されていないため、著者の推測に基づく叙述か、史料に基づいた記述かの判断がつかない。ただし『三河物語』を所々で多用しており、近世における家康のイメージを知ることができる点では読みごたえがある。
ブログ主の分を超えた物言いをしてしまったが、本書では、著者の関心のある事柄に関しては、詳しく検討されており、興味深く著者の考察部分を読むことが出来た。特に「徳川家康」への改姓問題やいわゆる二重公儀体制などは考察が行われている。また天正16年の聚楽第行幸時に見える家康の源氏改姓や前年の左近衛大将任官をもって、「豊臣関白政権下での事実上の将軍制」を志向していたという推察を行う。より詳細に慎重に検討を要するものであるが、家康が秀吉への臣従直後から天下取りの野心を抱いていたという考察は、興味深い指摘といえるだろう。関ヶ原合戦をはじめとする合戦の推移に関しても多くの推察から合戦像を導き出そうとしている。
本書では家康の人物像の解明も試みている。特に家康の趣味や嗜好に関して述べられた終章は面白い。家康といえば薬の調合も自身で行う健康オタクのイメージや、吾妻鏡を愛読していたという学問好きのイメージが持たれるが、趣味として能楽(申楽)に打ち込んでいたという一面はあまり知られていない。本書では、こうした趣味・嗜好の面から家康の文化的な一面を引き出そうとしている。こうした点は、他の家康の概説書では多くは触れていない。家康の事績を追うだけでなく、その中で垣間見れる人物像についても見落とさないところが、本書の最大の特徴といえよう。

▶「本ブログのトリセツ」へ