非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

読書計器

先日、勉強会で「読書メーター」なるコミュニティサイトの存在を知り、試しに登録してみた。

 

これまで読書の感想に関しては、Twitterで呟いてきた。

最近では読書感想をこのブログでも投稿してきたが、この読書メーターでは、本に対する感想を投稿できるほか、他のユーザーの感想も手軽に読むことができる。読書マニアにとっては便利なツールだ。

 

さらに、ユーザーがこれまで読んだ本を登録すると、そのユーザーが本をどのくらいのペースで読むのか、どの作者の本をよく読むのか、ということまでグラフになってバレてしまう。読書マニアにとっては、とても恥ずかしいツールだということもわかった。

 

登録した後で、このツールの便利な点・自分にとって恥ずかしい点に気づいてしまった。自分が今まで読んできた本たちをひとまず登録してみたが、自分の読んだきた本の特徴・傾向がわかって恥ずかしながらも興味深かった。今後も、自分の読書の備忘のために、記録を続けていこうと思う。

 

先達の方がいらっしゃったら、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

 

なお、本ブログの読了エントリも引き続き更新していく。

 

 

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藤木久志著『城と隠物の戦国誌』(ちくま学芸文庫、2021年)

藤木久志著『城と隠物の戦国誌』(ちくま学芸文庫、2021年)読了。
本書は2009年に朝日新聞社より刊行された同名著書が文庫化されたものである。

戦国時代、戦乱の被害にさらされた村びとは、どのように自己の命と財産を守ったのか。戦国時代の城や隠物という行動などの危機管理策に着目し、人々が生み出した「生命維持の習俗」(サバイバル・システム)を解き明かしていく一冊。

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藤木久志著『城と隠物の戦国誌』(ちくま学芸文庫、2021年)

概要と感想

本書では、戦国時代の人々の危機管理方法として、①戦国の城の役割と、②村の隠物・預物の2つに注目している。

戦国の城は、武士が民衆を支配する拠点であるが、著者はそこに民衆の避難所としての役割を見出している。
戦国大名の支城は、その支城が支配する領域の村々によって維持管理されていた。戦国大名北条氏は村に対して「大普請」や「末代請切普請」といった夫役を課していた。それは村の貫高ごとに普請箇所(塀の普請など)が割り当てられ、用材費に関しては村の納める畠年貢(懸銭)から控除されるという、村々による日常的な城のメンテナンスのシステムであった。そして著者は、村々がこうした城の維持管理を引き受ける背景に、城が民衆の避難所として機能していたことがあったとしている。
北条氏領国の小田原城鉢形城川越城・岩付城などは戦争の危機に晒されると、町人や百姓は城の外曲輪や惣構えに避難していた。同様の事象は、豊臣秀吉による九州征伐の対象となった城でも見られ、戦国時代の城に民衆の避難所としての役割があったことを明らかにしている。


次に、戦争が訪れた村の人々が、自己の財産・持ち物を穴を掘って土中に隠したり、貴重品は地域の神社や寺院や土倉・他の村に預けたりした。城(または神社や荘園の政所)が村びとの避難所になったように、「聖なる空間」である地域の寺社は「物のアジール」になった。また他の村へ物を預けるという行動には、預物・隠物を媒介とした村々の強いつながりがあり、戦時だけでなく日常的に様々な共同の場・連帯のネットワークが見えてくることを明らかにしている。


以上のように本書では、戦争の危機にさらされた戦国の村における、人とモノの危機管理術を明らかにしている。著者はこうした習俗について、考古学・西洋史・中国史といった学際的・比較史的な観点を用いて明らかにしている点が特徴的であり、特に城の避難所としての機能については、中国やヨーロッパとの比較がされている。
古代中国の城郭都市は、領主の住む「城」と民衆の居住地=「郭」という二重構造になっており、中世ドイツの城郭(ブルク)も城主が住む城館と戦時に領民が緊急避難する広い区画を設けていた。著者はこういった海外の事例との比較から、日本の城にも民衆が避難する区画が存在すると仮定する。そして戦国期北条氏領国や九州の城館の事例を検証し、戦国の城に村びとの避難所としての機能があったことを見出しているのである。
また著者は、「領主と領民の間には、保護と奉仕の、いわば双務関係が成り立っていて、領主が保護責任を怠れば、領民も奉仕の義務を放棄する」という西南ドイツの慣習法を取り上げる。それを踏まえて、戦国日本においても村々が領主の城の維持管理に携わっていたことと、領主の城が民衆の避難所として機能したことが双務的な関係にあることを示唆している。
このように著者は、比較史の観点から戦国時代の城を見直し、領民を城郭において保護する領主の姿を見出しているのである。こうした比較史の視点については、著者の『戦国民衆像の虚実』(高志書院、2019年)でも述べられている。



気になったところ

先述した、民衆を城で保護する領主(城主)と城の維持管理に務める民衆の双務的関係については、疑問点も抱いた。
村は普請箇所を割り当てられ、城のメンテナンスにあたったが、こうした村が実際に戦時になると領主の城に避難したのか。領主の城に避難した人々は、城下周辺の町人が多かったのではないのだろうか。城の維持管理と城への避難が対応関係にあったかどうかは、本書中で取り上げられている史料のみからでは読み取れなかった。この点は個人的にも再考してみたい。

文庫版の本書では、城郭考古学者の千田嘉博氏が解説を担当している。この文庫版解説は、WEBでも読むことができる。

この中で「惣構えなど城の外郭が、民衆の避難の場であることを主たる目的にしたかも、検討する余地がある。」と指摘されているように、城の外郭の広大なスペースの存在のみから民衆の避難所としての役割を判断するのは、慎重となるべきであろう。


本書は、戦国大名の支配拠点として位置づけられてきた戦国期の城館に、民衆の避難所としての機能を見出したところに意義がある。外曲輪・惣構えのような城館構造の役割や、城をめぐる領主と領民の双務関係については、まだまだ考える余地はあるように思われる。本書は戦国社会における城の役割について探究の幅を広げる一冊である。



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武蔵野の中世@武蔵野ふるさと歴史館

先日、東京都武蔵野市の武蔵野ふるさと歴史館にて行われている特集パネル展示「武蔵野の中世―武蔵野合戦の古戦場を巡る―」
を拝観しました。

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特集パネル展示ポスター
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武蔵野ふるさと歴史館

本展では、南北朝時代に鎌倉・府中・小金井・埼玉を舞台におこった武蔵野合戦について、パネルでの紹介がなされていました。
観応の擾乱により鎌倉で足利直義が急死した後、南朝方で新田義貞の遺児である新田義興らが上野国で挙兵しました。この後に尊氏軍と新田軍が武蔵野で合戦に及んだのが武蔵野合戦です。

武蔵野合戦の過程に関して、展示では『太平記』の記述と古記録・古文書の記述を比較しており、『太平記』には見られない人見ヶ原・金井原合戦の存在が古記録・古文書から見出されるとし、現在の府中市小金井市付近を舞台に合戦が行われたことが明らかにされています。また、武蔵野市を含む中世の武蔵野は、人々があまり生活せず原野の広がる場所であり、合戦の舞台に選ばれることが多かったようです。

今回、武蔵野ふるさと歴史館にはじめて訪問しました。こじんまりとした雰囲気の歴史館でしたが、展示内容は充実しており、特に井の頭池周辺の遺跡に関する展示は興味深いものがありました。

ホームページ↓
http://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_guide/shogaigakushu_koza/rekishikan/1031332.html


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《コーナー》読了本レビュー

はじめに

ここのところ、毎週エントリを更新していますが、早くもネタ切れに悩んでいます(笑)

今回はまたまた新コーナーを立ち上げます。その名も「読了本レビュー」。(カテゴリー: 読了本)

今までも、本を読み終わった際はTwitterで感想を呟いていましたが、ブログの方では抱いた感想を更に書いていきたいと思います。

ちなみに、これまでのTwitterでの感想ツイート集はこちら↓

読書メーター

読書メーターについては下記エントリ参照↓↓

大石泰史著『城の政治戦略』(角川選書、2020年)

大石泰史著『城の政治戦略』(角川選書、2020年)読了。
戦国期今川氏の4つの城館を対象に、文献史学の立場から城館の政治・経済的役割を考える一冊。

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概要と感想

今川氏領国であった駿河遠江三河の城館は、今川氏滅亡後に徳川・武田・北条氏の攻防の舞台となり、現在に残る遺構も三氏の攻防の歴史と結びつけられて考えられている。その背景には、今川氏時代の城に関する文書の僅少さもあり、これまで同時期の城館の役割・機能についての考察は深められていなかった。本書では駿河府中今川館・駿河国興国寺城・遠江国高天神城三河国吉田城を取り上げ、残された文書から今川氏領国において各城が築かれた政治的背景や地理的条件を叙述している。

本書を読む際に注意したいのは、城館の軍事施設としての側面よりも、政治的状況・領国支配上の役割などの考察が中心になっているということである。そのため城館構造(縄張)やその軍事的運用・合戦の推移などに関する考察はほとんどない。しかし、1つの城の歴史を細かく把握することが、戦国大名による領国支配や政治情勢、地域史の解明の重要な糸口となることがわかるのが、本書の魅力である。

第2章では、駿河府中今川館に注目している。駿河という地が室町時代から戦国初期にかけて、東方への最前線・軍事的資源の供給地としての役割を果たしたことや、今川館の立地とその周辺の様相を、文献史料から解説する。最後に今川氏の「詰の城」についても推測を加えている。

第3章では、駿河国興国寺城を取り上げ、今川・武田・北条三氏の同盟において果たした役割や、今川氏滅亡後に「城主」となった北条家臣垪和氏の考察を行っている。

第4章では、遠江国高天神城を拠点とした福嶋氏が、今川氏の領国支配において果たした役割や、小笠原氏との関係を述べている。また遠江に沿岸部の水運・流通を介した他城との連携について、文献史料から考えており、非常に興味深かった。

第5章では、三河国吉田城を取り上げ、今川氏と国衆牧野氏との関係、今川氏における「城代」の権限、吉田天王社の石田氏の動向、そして牛久保城との関係を考えている。ここでは特に戦国大名と国衆の関係性について考察が勉強になった。城の持ち主を考察することが、大名権力の研究にもつながるところに、文献史学から城館を考える意義を見た気がした。

気になったところ

本書のタイトルには、「政治戦略」という言葉が用いられているが、「戦略」という語には、次のような意味が見られる。

(1)いくさのはかりごと。特に、戦いに勝つための大局的な方法や策略。戦術より上位の概念。
(2)ある目的を達成するために大局的に事を運ぶ方策。特に、政治闘争、企業競争などの長期的な策略。

(『日本国語大辞典』)

「政治」という言葉と合わせられて用いられていることから、2番目の意味なのだろうか。

本書では「戦略」について、次のように述べられている。

城は防御施設であるが、大名がそこを軍事的・政治的・経済的な中心地として活用していたことは間違いない。今川氏もその地を戦略的拠点として位置づけ、大名領国の安定を図るために運用していたことであろうことは想像に難くない。城に関する今川氏の文書等を改めて見ていくと、若干ではありながらも同氏の戦略的な志向・方向性が見え隠れする。今川氏の城館を見ていくことで、今川氏の目指していた戦略的志向を考えたい。それが本書のねらいである。
したがって本書は、「城」を表題に掲げているにもかかわらず、何年にどこの城で誰が討死したなどといった記述にはなっていない。今川氏と敵対する大名等との城の攻防=争奪戦をメインに据えた本ではないということを最初にお断りしておく。事例として提示した城の、“本来的な意味”を考えたものである。すなわち城は、大名とその領域下に居住する人々を防備するため、あるいは軍事・流通等の円滑化といった「戦略」のために築造されるので、その点を明確化するものである。

(大石泰史『城の政治戦略』p10~11)

ここで筆者は、城が人々を防備するため・「戦略」(=軍事・流通等の円滑化)のために築かれるとしており、「戦略」という語を先の1番目の意味として用いているものと思われる。
しかし、本書は「今川氏と敵対する大名等との城の攻防=争奪戦をメインに据えた本ではない」としているし、「城は防御施設であるが、大名がそこを軍事的・政治的・経済的な中心地として活用していたことは間違いない。」とも述べている。
つまり本書における「戦略」には、戦争遂行における策略という意味(=1番目の意味)のほかにも、政治的・経済的な目的を達成するための策略という意味(=2番目の意味)も含まれているように思えた。これは城が単なる軍事的施設なのか?という“城とは何か”の議論にもつながるのではないかと考えた。



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《コーナー》博物館レポート

目次

はじめに

2021年がはじまってから、本ブログではエントリを数個更新しています。前年までは月1回エントリを書くことを目標としていましたが、今年になってからもっと更新したくなりました。



そこで新コーナー「博物館レポート」をはじめます(カテゴリ: 博物館レポ)。

今までも博物館の特別展・企画展へ訪問した際は、Twitterで感想を呟いていましたが、ブログの方でももう少し自分の感じたことを書いてみたいと思います。

ちなみに、これまでのTwitterでの感想ツイート集はこちら↓


勝手に博物館展覧会アワード

戦国時代の鎌倉@鎌倉歴史文化交流館

先日、鎌倉市の鎌倉歴史文化交流館にて行われている企画展「戦国時代の鎌倉 もとの都に成してこそみめ」を拝見しました。

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企画展ポスター
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鎌倉歴史文化交流館

本展は、鎌倉幕府以来政治の中心地として栄え、鎌倉府の滅亡とともに荒廃した都市鎌倉において、小田原北条氏が鎌倉周辺をどのように治めたのか、古文書・考古資料から読み解く展示となっていました。

特に伊勢宗瑞が築いた玉縄城に関する出土物が多くの展示されていました。白磁などの舶来品や、重ねられた状態(地鎮のためか)で出土した瀬戸・美濃系の小皿、鎌倉市内でも出土が少ない内耳土鍋があり、北条氏の支城としての役割を出土物から感じられました。

古文書の展示は、小田原北条氏が鎌倉の寺社に発給した文書が多かった印象を受けました。荏柄天神社に残された「荏柄社造営定書案」は、北条氏康が同社の再興のために関所を設けさせ、徴収した関銭を造営費に充てるように定めたものでした。

また、玉縄城の2代城主北条為昌が光明寺に宛てて、三浦郡一向宗門徒光明寺の檀那になるよう命じた朱印状や、建長寺龍源軒が報国寺の敷地半分の所有を訴えた事について、鎌倉代官大道寺政繁が北条氏家臣安藤良整と連絡をとった書状などの展示があり、北条氏による鎌倉支配の具体例が読み取れました。

本展では、小田原北条氏と鎌倉の職人との繋がりについての展示も目を引きました。北条氏綱による鶴岡八幡宮の修造の様子が記された「快元僧都記」(別名・鶴岡平氏綱再興記、國學院大學蔵黒川家本)では、鎌倉や京都など各地の職人が集められ、同宮の修造を行っていた様子が読み取れました。修造に携わった職人たちは、北条氏の保護のもと現地に定住したようです。「小田原衆所領役帳」では、職人衆という分類の中に「玉縄番匠」「綱広鍛冶」など鎌倉に関係の深い職人が記されていました。「綱広鍛冶」は北条氏の庇護をうけた刀工で、綱広の太刀はエントランスの常設展に陳列されていました。鎌倉歴史文化交流館の位置する場所は、江戸時代には綱広の屋敷があったようで、一帯は「綱広谷」と呼ばれているそうです。

本展の展示リスト↓

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企画展「戦国時代の鎌倉」展示品リスト

受付では同展のハンドブックが配布されており、企画展鑑賞後の復習になりました。

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企画展「戦国時代の鎌倉」ハンドブック


ブログ主自身、鎌倉歴史文化交流館に初めて訪問しましたが、想像以上に常設展も充実しており、見入ってしまいました。特に中世の展示室では、永福寺跡の遺物や寺社・町場から出土した舶来品・地鎮具などが豊富に展示されており、中世都市鎌倉の生活を垣間見ることができました。

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「戦国時代の鎌倉」チラシ(表)
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「戦国時代の鎌倉」チラシ(裏)

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