非城識人ノート

日本の城、中世史、読書、思いつき…など

徳川家康と北遠@浜松市立内山真龍資料館

浜松市立内山真龍資料館にて行われている特別展「徳川家康と北遠」を拝観しました。

本展チラシ

本展は、永禄11年(1568)12月に侵攻し遠江を拠点にした徳川家康が、武田氏と二俣城・犬居城などをめぐる攻防が繰り広げられた北遠(現在の浜松市天竜区)に、どのような関わりがあったのか紹介するものでした。

構成

本展は以下のような構成となっていました。

第1章 徳川家康と北遠(第1展示室)

 …展示リスト№1~10を展示。徳川家康と北遠地域の関係を、壁面のキャプションで紹介。

第2章 二俣城で戦った武将たち(第2展示室)

 …二俣城の戦いをイラストも用いて解説。ゆかりの地も紹介。

第3章 徳川家康と天野氏との戦い(第2展示室)

 …家康による犬居城・光明城攻めの様子を地形図で詳細に紹介。犬居城主天野氏の歴史も解説。

第4章 二俣城に散った信康(第2展示室)

 …信康事件について解説。ゆかりの地も紹介。

第5章 北遠の城砦を見る(第2展示室)

 …北遠の山城を鳥瞰図や縄張図を掲載して紹介。

第6章 笹岡城~二俣城の歴史(第2展示室)

 …笹岡城・二俣城・鳥羽山城のジオラマを中心に、城の歴史を紹介。こちらは普段常設されている。

主な展示品と感想

このうち主な展示品のほとんどは第1章にて展示されており、他の章はパネルやジオラマによる紹介が主でした。
主な展示品リスト(同展「開催のしおり」より)を以下に示しながら、主なものに感想を述べていきます。

1, 徳川家康朱印状(田代家文書) 軸装/個人寄贈/浜松市指定文化財 天正8年 1張

 →江戸時代に北鹿島村の名主を務めた田代家に伝わる古文書のひとつ。家康が諸役免除と筏流しの特権を与えた朱印状。天正8年ですので、家康が浜松を拠点に遠江国で武田氏と攻防戦を繰り広げていた頃でしょうか。本展では唯一の家康発給文書でした。田代家は筏問屋として地元で有名な家なので、家康との関係を知る上で貴重なものです。

2, 徳川家康十六神将幅(大久保忠世・忠佐兄弟ほか) 軸装/個人蔵/制作年不詳 1張
3, 清瀧寺御滝之絵図 絹本着色軸装/絵師:法印鳳月/和歌:平(小栗)広伴 1張
4, 二俣古城懐詩 書幅/依田百川(学海)作/個人寄贈/明治32年(1899) 1張

 →作者の依田百川は、かつて二俣城主であった依田信蕃の末裔のようで、百川が二俣に訪問した時に田代家に逗留した際に書いたもののようです。どのような経緯で二俣を訪れたのでしょうか。

5, 遠江国風土記伝(豊田郡)二俣城跡図 和綴じ/内山真龍作/個人蔵/寛政3年(1791)/静岡県指定文化財 1冊
6, 遠江国風土記伝(敷智郡)三方原合戦陣形図 和綴じ/内山真龍作/個人蔵/寛政元年(1789)/静岡県指定文化財 1冊

 →陣形は甲陽軍鑑を参考に描かれたようで、当時の甲陽軍鑑の影響力がうかがえます。

7, 遠江国風土記伝(山香郡)犬居古城図 和綴じ/原作内山真龍(写本)/個人蔵  1冊

 →犬居宿や瑞雲院も描かれており、家康の犬居城攻めを考える上でも参考になる図です。

8, 三河物語 和綴じ/原作大久保忠教(写本)/個人蔵 1冊

 →家康による犬居城攻めの箇所が展示されていました。

9, 清瀧寺寺領絵図(米山家文書) 絵図/個人寄贈/元禄15年(1702)~/正徳2年(1712)頃(ヵ)/浜松地域遺産センター 1枚

 →二俣村の名主役を務めた米山家に伝来した絵図。清瀧寺の寺域を示したもの。門前には中泉代官窪島長教の屋敷地(?)の名前があり、元禄15年(1702)~正徳2年(1712)頃のものと推測される。絵図には清瀧寺の他にも山林となった二俣城が描かれており、両者の間の蜷原という場所には、「三郎様御火葬場」と書かれた場所があり杉の大木が立っている様子も描かれている。三郎様とは、徳川家康の長男信康のことであり、二俣城で自害し清瀧寺に墓があります。現在その場所どうなっているかはわかりませんが、清瀧寺における信康の重要性が感じられました。

10, 大久保彦左衛門書状(田代家文書) 軸装/個人寄贈/浜松市指定文化財/寛永年間(1624~1639)頃(ヵ) 1枚

 →三河和田(岡崎)の譜代家臣大久保忠員の八男で、「三河物語」の作者として知られる大久保彦左衛門忠教(ただたか)が、若い頃の鹿島椎ヶ脇神社に対して行った非礼について詫びた書状。忠教は、神社裏の岩上から椎ケ脇淵へ石を投げ込むといういたずらをし、後悔して、神社に寄進をしたらしいです。この本人による回想は大久保忠教がかつて二俣城周辺にいたことがわかり、彼が犬居城攻めが初陣だったことと関連する。神社は天竜川をはさんで鳥羽山の対岸に位置している。

11, 乍恐以書付奉願上候(金谷宿助郷御勝栗由緒にて御免願) 書状/個人蔵/(差出人)山東村名主八左衛門外6名 (宛先)柴田郡兵、勝田庄蔵/天保11年(1841) 1枚

 →山東村が家康に勝栗を献上したという由緒を持ち出して、金谷宿の助郷を免除するよう嘆願した書状。浜松市には勝栗由緒が多くみられる。山東村と金谷宿の関係を知りたい。両者は結構距離がある気がするが。

12, 遠州味方原御合戦之図(合戦布陣図) 絵図/個人蔵/制作年不詳 1枚
13, 浜松籠城之図(錦絵)酒井の太鼓 絵画/個人蔵/制作年不詳 1枚

 →酒井の太鼓を描いた錦絵の中でも著名なものでした。

14, 清瀧寺境内絵図 印刷/絵図/明治35年頃 1枚
15, 城郭図 北遠諸城(犬居、光明、高根城ほか)/個人蔵 7点

 →関口宏行氏が作図した復元鳥瞰図・縄張図を掲載。『北遠の城』という冊子にも掲載されているもの。

展示を拝観して

 徳川家康と北遠というテーマの展示でしたが、家康家臣の大久保氏の動向が多く扱われていました。家康と北遠の関係は、犬居城攻めや二俣城攻め、信康事件など、様々な要素があるので、そのすべてを紹介していたため、かなりの分量があり、充実していました。展示品も興味深いものばかりでしたが、一つの部屋に集中して展示されていたため、壁面に掲示されていた解説とどのようにリンクするのか、見えにくい部分もありました。まあ小さな資料館なので仕方ありません。解説の分量や展示品も十分に楽しめる展示でした。

内山真龍資料館は約3か月ぶりの訪問でした。小ぶりな資料館ですが、興味深い文書が展示されるので、今後も要チェックです。
oshiroetcetera.hatenadiary.com

内山真龍資料館

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士(サムライ)たちの富士山@静岡県富士山世界遺産センター

先日、静岡県富士山世界遺産センターにて行われている特別展「士(サムライ)たちの富士山」を拝観しました。

同展ポスター
静岡県富士山世界遺産センター

 今回の特別展は、第一部「清見寺と武家政権―足利将軍、豊臣秀吉徳川家康―」(10/1~10/30)・第二部「頂へのあこがれ」(11/3~11/27)の二部構成となっており、ブログ主は第一部を拝観しました。
 清見寺は足利将軍家により五山官寺制度のなかに組み込まれた十刹のひとつであり、東海道屈指の名刹として知られました。今回は清見寺に伝来した什宝や秀吉・家康関連の資料を展示し、武家政権との関わりを読み取るものとなっていました。
 企画展示室を入ってまず目にするのは、木造足利尊氏像(清見寺蔵)です。14~15世紀のものであり清見寺の利生塔に安置されているものと言います。室町幕府との強いつながりを感じさせます。その後、清見寺は戦国時代の混乱の中荒廃していきますが、今川義元に仕える太原崇孚清見寺を五山派から妙心寺派に改めます。崇孚は清見寺の準開山という位置づけになるそうです。天下人となった秀吉や家康の時代には、大輝祥暹が彼らと交流し同山の復興につとめ、中興開山となりました。清見寺にとって、太原崇孚や大輝祥暹は重要な人物であり、彼らの肖像や木像が展示されていました。
 前述のように天下人秀吉・家康との交流がうかがえる史料が複数展示されていました。豊臣秀吉清見寺遊楽記(伝細川幽斎筆)は、天正18年(1590)3月に小田原北条氏攻めの際、豊臣秀吉東海道を下った折と、平定して帰途の8月に清見寺を尋ねた際の模様と詠歌を細川幽斎が、書いたものと伝えられるものです。展示では室町幕府6代将軍足利義教の富士遊覧にならったかと推察されています。
 文禄2年の朝鮮出兵の際に、清見寺は肥前名護屋に在陣する秀吉・家康の両人に陣中見舞いを送ったらしく、秀吉・家康からの返書(どちらも清見寺蔵)がそれぞれ展示されていました。秀吉には弓掛、家康には踏皮(足袋)を送ったようで、こういった贈答品の違いには何か意味があるのだろうかと妄想してみたり。秀吉は稲葉兵庫頭、家康は全阿弥を使者として返書を清見寺に届けたようで、秀吉は朱印状、家康は書状の形式でした。稲葉兵庫頭は秀吉家臣の稲葉重通であり、この人物は春日局の養父にもあたるようです。全阿弥は勉強不足でよくわかりませんが、家康の初期の寺社取次役という立場のようです。というか、そのタイトルの論文を見つけたので、読まなきゃいけないですね。
cir.nii.ac.jp
 家康関係の展示で、とても珍しかったのは家康直筆の能番組(清見寺蔵)です。大御所時代の家康が記したものだったはず(記憶が曖昧…)。能番組には、嵐山、兼平、采女大江山、邯鄲(かんたん)、善知鳥(うとう)、治親、融(たうる)と、メモ書きのように演目が記されていました。家康は能が好きだったというエピソードは以前にも笠谷和比古氏の著書で読んだことがありますが、実際の史料として可視化されたので感動しました。
oshiroetcetera.hatenadiary.com
 そのほかにも、屏風の展示もあり、御所参内・聚楽第行幸図屏風(個人蔵・上越市立歴史博物館寄託)は見ごたえがありました。また富士三保清見寺図屏風(センター蔵)は写真撮影可能だったので、撮影してきました。

屏風キャプション
富士三保清見寺図屏風

 この屏風は清見寺にかくまわれていた武田家臣土屋昌恒の遺児が、家康に見いだされるというエピソードが描かれており、この遺児はのちに土屋忠直として大名へと出世する人物となります。この屏風に関する展示は昨年度にも行われたようで、その際の図録を購入しました。家康と土屋忠直の出会いは、天正16年のことであったようですが、この屏風に描かれた家康は大御所時代を思わせる老年の隠居姿です。そこにはズレも感じますが、図録の考察では、この屏風が制作された17世紀、家康といえば東照大権現であり、神格化された老年の頃の神影としてイメージが強かったため、屏風でも隠居姿の家康が描かれたとしている。江戸時代の人々にとっての家康のイメージは武将の姿よりも長生きした大御所の一種の神懸った姿なのかもしれない。いや、現代でもそのイメージは根強いだろう。この屏風の制作背景や伝来過程が気になります。


 以上のように、本展では清見寺と武家・天下人たちとの関係について貴重な展示物とともに紹介されていました。「士たちの富士山」というタイトルにしては、富士山との関連は少ないように思いましたが、おそらくそれは第2部の展示で扱うのでしょうか。第2部では「富岳真図」や「富士山中真景全図」が展示予定のようで、近世の武士たちの富士山へのあこがれを絵画から読み取るものとなっているようです。

 今回、富士山世界遺産センターを初めて訪問しました。常設展では富士山の誕生や自然環境、富士山への信仰の歴史を扱っていましたが、ほとんどがプロジェクターの投影による紹介のようになっていました。もう少し展示物があってもいいのに…。企画展示室も建物の大きさの割には小規模に感じられました。まあ博物館とは名乗っていないので、期待しすぎてもいけませんね。当日は、あいにく富士山は雲にかかっていて眺めることはできませんでした。また天気の良い日に富士山を富士宮でみたいですし、世界遺産として指定されている信仰の跡にも足を運びたいと思います。

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鎌倉殿の宴のあと―伊豆山出土の中世土器―@熱海市立伊豆山郷土資料館

 先日、静岡県熱海市立伊豆山郷土資料館にて行われた企画展「鎌倉殿の宴のあと―伊豆山出土の中世土器―」を拝観しました。

同展チラシ
熱海市立伊豆山郷土資料館

 まず、伊豆山郷土資料館がとてもコンパクト!(失礼)企画展といっても、展示ケース2つ分ほどの小さいものでした。が、展示内容はとても良かったです。メインの展示品は伊豆山で出土した白色系かわらけ。白色系かわらけは、箱根神社三嶋大社伊豆の国市守山の北条氏館と伊豆山でしか出土していないと解説されていました。明らかに鎌倉幕府・北条氏ゆかりの場所!本展では鎌倉殿による二所詣との関連が指摘されていました。この白色系かわらけは、伊豆山のどこから出土したのだろう…。調査時の図面などが展示されていればなあ…。
 他にも青白磁の器やワラビ手文様の古瀬戸鉄釉四耳壺、白磁の四耳壺・青磁の八耳壺が展示されていました。どれも伊豆山との関連しているものでしょう。
 小さな資料館ですが、展示物は逸品。残念ながら北条政子が自らの髪を編み込んだという曼荼羅の現物は、公開期間が過ぎて惜しくも見られずでしたが、感動したのは伊豆山の経塚遺跡から出土した経筒の数々!永久5年(1117)の紀年銘も確かに読み取れました。また、天台思想の梵字最澄の著作から引用された墨書が胎内から出たという、男神立像・女神立像も展示されており、走湯権現における神仏習合が感じられ、ゾクゾクしました。伊豆山権現立像や木造宝冠阿弥陀如来像は、拝観時には神奈川県立歴博へ出張中だったので、見れなくて残念でした。

 資料館を見終えてから、伊豆山神社の裏山、伊豆山の本宮神社を登る道を歩きました。巨岩の上につくられた社殿をもつ白山神社は、とても神秘的な場所で、磐座への信仰が感じされます。近くには修験者の行場へ続く道もありましたが、蜘蛛の巣と藪が酷かったので断念。またいつかリベンジしたいです。

巨岩の上に建つ白山神社

 本宮神社へ参拝を終えて別ルートで下山しているときに、これまた神秘的な岩がありました。牓示岩のような…。

伊豆山神社の裏手の山中に立つ岩

 伊豆山神社へ戻ったあとは、更に参道をおりて海岸近くまで行きました。ここには走り湯という古泉があり、今も湯気がもくもくとしていました。

走り湯の入り口

 伊豆山は役行者が開いたという修験道の霊験の地とされ、『梁塵秘抄』にも記されているそうです。今も土砂崩れの復旧が続く伊豆山ですが、中世の痕跡は確かに残り続けています。

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城下町飯田と飯田藩@飯田市美術博物館

先日、長野県の飯田市美術博物館にて行われている特別展「城下町飯田と飯田藩」を拝観しました。

本展ポスター
飯田市美術博物館

 本展は、堀親昌が飯田藩主として下野烏山から入封して350年、飯田城下町の基礎を築いた京極高知の没後400年の節目にあたる今年(2022年)、城下町飯田の変遷を振り返るという趣旨で開催されました。本展の構成は以下の通り。

第1章「争」う―群雄割拠の時代
第2章「治」める―脇坂家の治世、堀家支配の二百年
第3章「築」く―殿さまたちのまちづくり
第4章「嗜」む―教養と社交の果実
第5章「暮」らす―飯田城下の暮らしぶり、城下町の歳時記
第6章「伝」わる―飯田藩堀家の至宝
第7章「新」たにする―それぞれの幕末・維新、飯田城の廃城と跡地利用、飯田大火からの復興

 章立ても見てもわかるように、本展は規模が大きく気合が入った展示でした。一番の見どころは、やはり第3章にて展示されていた信濃国飯田城絵図でしょう。長野県宝にも指定されている本図は、約250×300cmの大きなもので、飯田城内から城下町まで詳細に描かれています。以前から個人的に気になっている、飯田城の山伏丸の様子も確認できました。また飯田城各曲輪における家臣の役割を記した文書や、様々な飯田城・城下絵図が展示されており、とても面白かったです。
 この飯田城は小笠原一族の坂西氏が築いたとされる城です。もともと坂西氏は「飯坂」の地に居館を構えており、飯田城の地にはもともと修験者の行場がありました。坂西氏はその場所に居館を移して城とし、行場は飯坂の地(現在の愛宕神社)に移したと言われています。つまり、山伏の修行場と居城が入れ替わったのが、飯田城のはじまりらしいですが、なぜこのような築城になったのか、謎めいており興味深いです。本展では、飯田城が築かれたころの同時代史料も出展されており、伊那地域における武田氏や織田氏、小笠原氏らの変遷が読み取れましたが、飯田城の存在に関する確かな記述がみられず、謎が深まりました。
 また飯田城下町の形成に関わる展示や考察もなされており、本格的な城下町整備は元和3年に入部した脇坂氏の時代であることが確実とのこと。ではそれ以前の飯田城や城下町はどうなっていたのだろう。伊那地域の政治的拠点だったのだろうか。飯田城も城下町飯田も形成の頃を物語る同時代史料はほとんど無く、後世に書かれた由来記などに依存せざるをえないという。今回の展示は、飯田のまちの歴史を考える上で重要な機会であり、また研究課題も浮かび上がってくるようでした。
 本展では、飯田城や飯田藩の歴史だけではなく、文化や民俗行事など、様々な視点から城下町飯田を叙述し直すものとなっていたのも、大きな特色です。飯田お練り祭りや、「千鳥」という香炉の伝来など、興味深いトピックが多かったです。展示の要所要所では、城下町飯田の見どころを紹介するパネルも掲示しており、美術博物館だけでなく、周りの城下町にも足を運びたくなる工夫が見られました。また古文書の展示では、数行程度で内容をゆる~く訳したキャプションも置かれており、くずし字が苦手な人でも興味が持てる工夫がありました。

本展図録

 図録も購入。素晴らしい展示図録です。コラムも充実。美術博物館の学芸員・専門研究員だけでなく、教育委員会文化財保護活用課の方のコラムや、飯田市歴史研究所所長吉田伸之氏の論考も載せており、飯田市の教育部門の総力が伝わってきます。

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流人頼朝と伊東氏@伊東市文化財管理センター

先日、静岡県伊東市文化財管理センターにて行われている企画展「流人頼朝と伊東氏」を拝観しました。

企画展ポスター
伊東市文化財管理センター

本展は、伊東市ゆかりの鎌倉武士伊東氏と源頼朝の関係について、最近の研究成果をパネルで紹介するとともに、伊東市内の遺跡で出土した、平安・鎌倉時代ごろの遺物を紹介する展示となっていました。伊東氏といえば、流人時代の源頼朝を監視していた伊東祐親や、富士の巻狩りで仇討ちを行った曽我兄弟などが著名です。平安から鎌倉時代にかけて名をはせた伊東氏の力がうかがえる考古遺物が多く出陳されていました。

東林寺は伊東氏の菩提寺として知られる寺院です。境内の朝日山経塚からは、青白磁合子や盒が出土したようです。出土遺物の展示はありませんでしたが、現在は東京国立博物館の所蔵となっているようです。
webarchives.tnm.jp

井戸川遺跡は、中世の湊と推定されている遺跡で、白磁碗・青磁碗などの貿易陶磁が全体の遺物の14.91%を占めるなど、盛んな交易がおこなわれていたことがうかがえます。ほかにも常滑焼や渥美焼・山茶碗・南伊勢系鍋も多く出ており、東海地域とのつながりも見えました。

日暮遺跡は、現在の日暮八幡神社周辺における遺跡であり、白磁青磁・南伊勢系鍋・渥美焼が出土したほか、青白磁の梅瓶が出土しており、伊東氏の力がうかがえました。
伊東館跡からは珍しい白色系かわらけが出土しており、興味深く拝見しました。

本展のメインには寺中遺跡の出土物の展示もありました。特に同遺跡の製鉄炉は発掘された状態のままの剥ぎ取りが鎮座しており、羽口もついていて、製鉄の様子が伝わる展示でした。その他にも製錬滓や木炭の出土遺物も展示されており、当地の宇佐美氏や河津氏といった武士たちと製鉄の関係がうかがえました。

本展では主に伊東氏をはじめとした伊東市域の武士団の動向や考古遺物の紹介がされていました。文献史料かた読み取れる状況と考古遺物の状況がどこまでリンクしてくるのか、今後の研究・調査が俟たれます。

伊東市文化財管理センターははじめて訪れました。常設展示では、伊東市域で出土した主な遺物を時代の流れとともに紹介していました。戦国時代では鎌田城で出土した貿易陶磁や瀬戸美濃系擂鉢、かわらけの他、飛礫や鉄砲玉などの武器も出土しており、興味深かったです。コンパクトな展示ですが、考古遺物から伊東市の歴史の一側面をうかがえるものでした。

伊東市文化財管理センターで展示を見た後、時間に余裕があったので、周辺の史跡をめぐりました。

伊東祐親公像

伊東市役所が位置している場所は、伊東氏の居館があったと言われており、伊東祐親の騎馬像がありました。像のある場所は伊東市街を見下ろせる高台に位置しており、拠点を置くには相応しそうな土地でした。

伝伊東祐親の墓所

近隣には伊東祐親のものと伝わる墓所があります。高さ約1mほどの立派な五輪塔がありました。

東林寺

墓所のある場所から谷を挟んだ向かい側に伊東氏の菩提寺である東林寺があります。境内には伊東祐親の息河津三郎祐泰の墓や曽我十郎祐成・五郎時致兄弟の首塚がありました。曽我物語と非常にゆかりの深い場所です。

河津三郎祐泰の墓
曽我十郎祐成の首塚
曽我五郎時致の首塚

伊東駅方面へ少し歩くと、音無神社があります。曽我物語によると源頼朝と祐親の娘八重姫が愛を語らった場所だとか。

音無神社

伊東大川を挟んだ対岸には、日暮八幡神社があり、ここも八重姫との密会のために日暮らし過ごした場所であるといいます。文化財管理センターの企画展では日暮遺跡の遺物が紹介されていましたが、ここから出土したもののようです。

日暮八幡神社
日暮八幡神社説明版


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鎌倉殿をとりまく者たち@三嶋大社宝物館

先日、静岡県三島市三嶋大社宝物館にて行われた前期特集展示「鎌倉殿をとりまく者たち」を拝観しました。

三嶋大社宝物館

本展は宝物館の前期特集展示として、三嶋大社宮司矢田部家に伝わる源頼朝北条義時をはじめとする鎌倉幕府関係の文書を中心に、館が所蔵する宝物を展示するものでした。主な展示は以下のとおり。
・治承4年10月21日付 源頼朝寄進状写
・治承5年7月29日付 源頼朝下文
・治承7年(寿永2)3月14日付 源頼朝
建仁3年8月10日 紙本墨書般若心経(源頼家筆)
元久2年2月29日付 北条時政袖判左衛門尉政元(時政奉行人)奉書
・(元久2年)閏7月27日付 北条義時書下
・安貞2年3月30日付 関東下知状(北条泰時北条時房)
・建長元年10月日付 伊豆国司庁宣 
・正和4年9月10日付 関東下知状(北条基時・金沢貞顕)
・弘長元年6月6日付 得宗公文所奉書

さすが三嶋大社、鎌倉初期の古文書が多くて眼福でした。
特に、義時書状は県下唯一のものと紹介があり、時期的には父時政を追放した直後に発給されたもののようです。静岡県では義時の記録は少ないのは意外でした。展示のキャプションには「北条義時書状」と書かれていた記憶があるのですが、書き止めに「状如件」とあったので、書状ではないように思いました。パンフレットには「書下」とあるのでそちらの方が相応しいように思われます。

北条義時書下(三嶋大社パンフレットより)

また北条時政の袖判が入った、左衛門尉政元奉書も興味深く拝見しました。政元という人物は北条時政の奉行人と解説があり、源頼家失脚直後における時政の権力の大きさが伝わってきました。

北条時政袖判政元奉書(三嶋大社パンフレットより)

その源頼家といえば、頼家自筆の紙本墨書般若心経も出陳されており、驚きました。

源頼家筆般若心経(三嶋大社パンフレットより)

このほか、北条泰時・時房連署の関東下知状や、源頼朝の下文も2,3点展示されていましたが、そのうち治承4年10月21日付源頼朝寄進状写は、偽文書の疑いもかけられている紹介がされており、三嶋大社の由緒形成を考える上でも重要な史料でした。

また特集展示には含まれていませんでしたが、神社通史展示スペースには、治承4年8月19日付の頼朝下文も展示されていました。8月17日が頼朝挙兵の時なので、その直後のもので大変貴重でした。頼朝の息遣いが伝わってくるようでした。

源頼朝下文(三嶋大社パンフレットより)

特集展示では、さまざまな宝物と題した展示も行われており、そこには建武元年2月9日付足利尊氏寄進状もありました。通史展示スペースも三嶋大社の歴史がうかがえる展示が行われており、永禄12年閏5月4日付北条氏政判物は、今川氏滅亡時の三嶋大社周辺の状況が伝わってくるものでした。

三嶋大社かつて訪れたことがありましたが、宝物館は初めて訪れました。こじんまりとした施設にも関わらず、展示されているものは一級品が多く、とても見ごたえがあり、十分に楽しめました。伊勢宗瑞などの文書もあるようなので、宝物館の展示替え情報もチェックしながらまた訪れてみたいです。

三嶋大社

古文書あれこれ@内山真龍資料館

先日、静岡県浜松市立内山真龍資料館にて行われた常設展「古文書あれこれ」を拝観しました。常設展とはいえ、6月~9月までの限定開催でしたので、見に行きました。

同展ポスター
内山真龍資料館


今回の展示では以下の文書の展示が行われていました。
大谷村 内山家
・内山真龍自画像/文政2年(1819)※浜松市指定文化財
・詠書画(竹画讃)
・真龍日記/文化9年(1812)
・内山家小室系図
中村 中村家
・吉良義尚下文/永享7年(1435)※浜松市指定文化財
今川義元判物/弘治3年(1557)※浜松市指定文化財
・渡ヶ嶋百姓大坂陣軍役銭皆済証文/慶長19年(1614)
・覚 女通行手形/元禄6年(1693)
・阿多古川筋村絵図/寛政11年(1799)
鹿島村 田代家
・舟越免畠屋敷(川口村筏乗免屋敷畠帳)/天正17年(1589)※浜松市指定文化財
・北鹿島村五人組之事/文化4年(1801)※浜松市指定文化財
二俣村 米山家
・二俣村絵図/寛延3年(1750)ヵ
相津村 鈴木家
・相津村年貢皆済目録/文化6年(1809)

お目当てはやはり、吉良義尚の下文でした。吉良といえば三河国に拠点があるイメージですが、浜松庄も所領としており、遠州とも関わりの深い家です。内容は義尚が阿多古村の土豪中村家に所領の一部を給与したものでした。永享7年から土豪として現れる中村家という存在を知らなかったので、大変勉強になった。また、今川義元判物も先の吉良義尚の下文を踏まえて出されており、今川家の吉良家への意識もうかがえそうな文書でした。
また、渡ヶ嶋百姓大坂陣軍役銭皆済証文は、大坂冬の陣ごろの当地域の動向をうかがえる貴重な文書でした。またこの証文が宛先に送られずに地元に残っているということも興味深い点です。
天正17年の舟越免畠屋敷(川口村筏乗免屋敷畠帳)も存在を知らなかったので、勉強になりました。水上交通の要衝である当地域の特質がうかがえる貴重な史料でした。

同展チラシ

内山真龍資料館は初めて訪れました。展示室が二つと民家の野外展示のあるこじんまりした資料館ですが、所蔵しているものは興味深いものが多く、また遠州国学の浸透を知る拠点となっています。二俣城・鳥羽山城・笹岡城といった館周辺の城跡のジオラマも手作りで復元されており、城攻めの様子や、当時の地形・景観が伝わってくる展示でした。

内山家長屋門
資料館説明版

この資料館は内山真龍の生家跡につくられたらしく、入口には内山家長屋門が残されています。

資料館を見た後に、近所の清瀧寺に立寄りました。

井戸櫓

清瀧寺には、徳川家康の嫡男松平信康の廟がありました。

信康廟入口

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